ネット上の情報によると中山法華経寺第19世寂静院日賢聖人の隠室として創始、第三世常在院日在聖人が寛永7年(1630年)当地に創建したとされています。
山門には清正公大神祇安置、六三除虫封之寺と記されていました。加藤清正が日蓮宗の信者であったことが知られています。このことから中山法華寺にも清正公大神祇があると言います。
六三除は九星をもとにした病気平癒の祈祷術で、人の生命を害する六根の妄執と三毒とを取り除くとされています。
境内には学業成就のお祖師さまという日蓮聖人の幼少時の像が置かれていました。
仏教の一宗派。鎌倉時代に日蓮が開いた。法華経を所依(しょえ)とし南無妙法蓮華経の題目を唱える実践を重んじ、折伏(しゃくぶく)・摂受(しょうじゅ)の二門を立て、現実における仏国土建設をめざす。
1562~1611年、安土桃山時代の武将。幼少より豊臣秀吉に仕え、賤ヶ岳七本槍の一人。熊本城主。文禄・慶長の役の先鋒。関ヶ原の戦いでは徳川方について肥後52万石領主となる。秀吉亡きあとの豊臣家の安泰もはかった。
鎌倉時代の僧。日蓮宗の開祖。安房小湊の漁師の子という。17歳ころから鎌倉・比叡山などで11年間修行研鑽し、法華経こそ至高の経典であるとの確信を得、1253年故郷の清澄山頂で題目を高唱して開宗した。
1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀・柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。
天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。
文禄元年(1592年)豊臣秀吉が明の征服を目的に朝鮮に出兵した侵略戦争。約16万の軍を釜山に上陸させ明の国境まで進出したが、明の援軍、朝鮮水軍の攻撃や民衆蜂起などによって劣勢となり停戦。
慶長5年(1600年)関ヶ原で石田三成らの西軍と徳川家康らの東軍とが天下を争った戦い。小早川秀秋の寝返りにより東軍が大勝した。石田三成らは処刑され豊臣秀頼は60万石の大名に転落した。これにより徳川氏の覇権が確立した。