若山城(富田若山城、周防若山城) 


 城郭の構造:連郭式山城
 築城の時期:14世紀中頃から15世紀後半
 廃城の時期:弘治3年(1557年)頃
 主な城主:陶興房、陶隆房
 所在地:山口県周南市福川
 訪問日:2016年9月1日

 

現地の案内板によると若山城は大内氏の重臣陶氏の本城で、文明2年(1470年)頃、陶弘護が石州津和野(現島根県)の吉見氏の侵攻に備えて構築したものと考えられています。

中世の連郭式城郭と呼ばれる山城で東西にのびる尾根上を利用した郭や空堀、竪堀、壇床などの遺構が良く残されています。特に本丸北側斜面から東にかけて残る大規模な畝状空堀群は中世城郭の遺構をよくとどめていると言います。

天文24年(1555年)陶晴賢厳島合戦毛利元就に敗れ自刃、若山城には嫡男の長房がいましたが杉重輔に攻められ自刃し陶氏は滅亡しました。

国道2号線の傍にある駐車場には若山城や陶晴賢の武勇伝を語る案内がありました。ここから二の丸の駐車場までは山道が続いていますが路肩が崩壊しているようで通行止め、仕方なく30分ほどの山道歩きです。

二の丸、三の丸の駐車場からは本丸に向かっての山道が続いています。道端には壇床が残っているようですが木々に覆われあまり明確ではありません。

本丸跡には小さな石祠と海軍省と刻まれた石柱が残っています。目の前には周防灘の展望が広がっていました。

若山城の案内板
若山城540年記念碑
義を見てせざるは勇なきなり
若山城の歌があるようです
山道に漢詩があります
崩壊した山道
二の丸の駐車場
若山城址の見取り図
周防灘の案内板
周防市の先に周防灘の島々
二の丸・三の丸跡
本丸への山道
壇床の案内板
本丸の登りに石鳥居
若山城の案内板
山頂に石祠
山頂に若山城址の石碑
周防灘の島影
郭跡か
壇床道の案内板
林の中に壇床
関連記録・コース

 陶晴賢(すえはるかた)

1521~1555年、室町末期の武将。主君大内義隆にそむいて自刃に至らしめその領国を掌握。厳島の戦い毛利元就に敗れて自害。

 

 厳島合戦(いつくしまがっせん)・厳島の戦(いつくしまのたたかい)

天文24年10月1日(1555年10月16日)安芸国厳島で毛利元就陶晴賢との間で行なわれた合戦で、日本三大奇襲の一つです。

 

 毛利元就(もうりもとなり)

1497~1571年、戦国時代の武将。大内義隆が家臣陶晴賢(すえはるかた)に倒されたのち、陶氏を討って周防・長門を支配下に収めた。出雲の尼子氏を倒して中国地方10か国を制覇。一族の結束を固めるための三本の矢の教訓が有名。

 

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TAG:宮尾城(宮尾ノ城、要害山)2016.8.29
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