現地の案内板によると若山城は大内氏の重臣陶氏の本城で、文明2年(1470年)頃、陶弘護が石州津和野(現島根県)の吉見氏の侵攻に備えて構築したものと考えられています。
中世の連郭式城郭と呼ばれる山城で東西にのびる尾根上を利用した郭や空堀、竪堀、壇床などの遺構が良く残されています。特に本丸北側斜面から東にかけて残る大規模な畝状空堀群は中世城郭の遺構をよくとどめていると言います。
天文24年(1555年)陶晴賢は厳島合戦で毛利元就に敗れ自刃、若山城には嫡男の長房がいましたが杉重輔に攻められ自刃し陶氏は滅亡しました。
国道2号線の傍にある駐車場には若山城や陶晴賢の武勇伝を語る案内がありました。ここから二の丸の駐車場までは山道が続いていますが路肩が崩壊しているようで通行止め、仕方なく30分ほどの山道歩きです。
二の丸、三の丸の駐車場からは本丸に向かっての山道が続いています。道端には壇床が残っているようですが木々に覆われあまり明確ではありません。
本丸跡には小さな石祠と海軍省と刻まれた石柱が残っています。目の前には周防灘の展望が広がっていました。
1497~1571年、戦国時代の武将。大内義隆が家臣陶晴賢(すえはるかた)に倒されたのち、陶氏を討って周防・長門を支配下に収めた。出雲の尼子氏を倒して中国地方10か国を制覇。一族の結束を固めるための三本の矢の教訓が有名。
1497~1571年、戦国時代の武将。大内義隆が家臣陶晴賢(すえはるかた)に倒されたのち、陶氏を討って周防・長門を支配下に収めた。出雲の尼子氏を倒して中国地方10か国を制覇。一族の結束を固めるための三本の矢の教訓が有名。
1497~1571年、戦国時代の武将。大内義隆が家臣陶晴賢(すえはるかた)に倒されたのち、陶氏を討って周防・長門を支配下に収めた。出雲の尼子氏を倒して中国地方10か国を制覇。一族の結束を固めるための三本の矢の教訓が有名。