石見銀山は戦国時代後期から江戸時代前期にかけて最盛期を迎えた日本最大の銀山です。最盛期に日本は世界の銀の約3分の1を産出したとも推定され、石見銀山の銀がそのかなりの部分を占めたとされています。
石見銀山は大森銀山、江戸時代初期は佐摩銀山とも呼ばれていました。明治期以降は枯渇した銀に代わり銅などが採鉱されましたが昭和18年ころ閉山されました。
石見銀山の世界遺産センターは銀山地区からかなり離れたところにあります。ここから遊歩道が通じているようですがあまり便利とは言えません。銀山公園の駐車場に車を停め間歩内部が公開されている龍源寺間歩に向かうことにします。
龍源寺間歩に向かう遊歩道には銀山の歴史を語る史跡などが残っています。鉱石の精錬を行った下川原吹屋敷、大久保長安の墓などもありました。
遊歩道の途中には新切間歩や福神山間歩があります。道端にある横穴は福神山間歩、採掘にあたった山師個人が経営した自分山(じぶんやま)と呼ばれるもので代官直営の御直山(おじきやま)に比べ規模も小さいようです。
龍源寺間歩は江戸時代の中頃、1715年に掘られた代官所直営の坑道です。公開されているのは273m、坑道には鉱脈に沿って多くの横穴が掘られています。劣悪な環境で鉱石の採掘にあたった多くの人の歴史が残っているようです。
石見銀山はその領有をめぐり尼子氏や大内氏が争奪を繰り返しました。大内氏の没落後は毛利氏と尼子氏が争奪を繰り返し最終的には毛利氏が手中に納めました。近くの山吹城は銀山の守ために築かれた城と言います。