小田城は小田氏の祖八田知家が常陸守護に任命されて当地に移って居館を構えたことが始まりと言われています。
南北朝期には小田治久が南朝方に属し常陸南部における南朝方の拠点となり、北畠親房や春日顕国なども入城しています。北畠親房が神皇正統記を執筆したところとしても知られています。
戦国時代には佐竹氏、多賀谷氏、真壁氏や越後の上杉謙信、小田原の後北条氏らと抗争を繰り返しました。後北条氏と結んだ小田氏治は永禄7年(1564年)に山王堂の戦いで上杉謙信に敗れるなど苦戦を強いられました。天正元年(1573年)の手這坂の戦いに敗れ小田城は佐竹氏のものとなりました。慶長七年(1602年)に佐竹氏の秋田移封に伴って小田城は廃城になりました。
かつて小田城は筑波鉄道の路線が横切っていました。その後つくば市の保存整備事業はじまり1997年(平成9年)から発掘調査が実施さました。2014年(平成26年)には中世の小田城の姿を復元した歴史広場の工事が行われています。
堀と土塁に囲まれた主郭には居館や政庁、倉庫、庭園など往時の縄張りなどが再現されています。
1530~1578年、戦国時代の武将。越後守護代長尾為景の子。景虎、政虎、輝虎と改名する。越後春日山城にあって北陸地方一帯を領有、小田原北条氏、甲斐武田氏と対抗した。特に武田信玄との川中島の戦いは有名。
1530~1578年、戦国時代の武将。越後守護代長尾為景の子。景虎、政虎、輝虎と改名する。越後春日山城にあって北陸地方一帯を領有、小田原北条氏、甲斐武田氏と対抗した。特に武田信玄との川中島の戦いは有名。