箱根駅伝のランナーが駆け抜ける遊行寺の坂には時宗の総本山遊行寺があります。時宗は一遍上人を宗祖とする浄土教の一宗派です。
一遍上人は「すべてを忘れ捨てて、ただ一心不乱に念仏を唱えれば極楽往生できる」とし全国各地を遊行し賦算と踊念仏によって民衆に布教を行いました。
弘安5年(1282年)一遍上人は鎌倉での布教のため鎌倉へ入ろうとするが時の執権北条時宗に阻止され片瀬で布教を続けたと言います。
遊行寺は俣野の領主であった俣野五郎景平が開基、遊行上人第四代の呑海を開山とし正中2年(1325年)に極楽寺の旧跡に創建されました。
境内には酒井忠重の五輪塔や逆修六地蔵、六十六部供養塔など古い石碑や石仏があります。坂井忠重は江戸時代の旗本で白岩8000石を領しながら多くの餓死者を出して改易されたと言います。境内には大きな五輪塔や六地蔵が祀られていました。
境内のはずれには中雀門があります。紀伊大納言徳川治宝から寄進されたもので関東大震災では倒壊しましたがその後再建されました。
時宗総本山と書かれた山門の中には放生池があります。五代将軍徳川綱吉の生類憐みの令のより江戸市中の金魚、銀魚が集められ放生池に放たれたと言います。今でも春の開山忌には放生会が行われているとお言います。
大乗仏教の仏。西方の極楽浄土の教主で生あるものすべてをすくう仏様。念仏により浄土に往生できるという阿弥陀信仰が鎌倉時代にさかんになり、浄土宗、浄土真宗、時宗などの浄土教宗派が成立した。
阿弥陀如来像は質素な形で如来の通相と呼ばれる姿をしています。小指を除く三指と親指で輪にした九品来迎印(くぼんらいごういん)を結んでいるのが特徴です。
鎌倉中期の僧。1239~1289年。時宗(じしゅう)の開祖。延暦寺に入り太宰府で法然の孫弟子聖達に浄土教を学ぶ。他力念仏を唱え衆生済度のため、民衆に踊り念仏を勧め全国を遊行した。
1251~1284年、鎌倉幕府八代執権。時頼の子。文永・弘安の両度の元寇に際し強硬に幕政を指導してこれを退けた。また禅宗に帰依して宋から無学祖元を招き円覚寺の開山とした。
中世に法華経六十六部を写経し、これを日本全国の霊仏霊社に納経する回国聖が行われていた。今も各地にこの回国供養碑を見ることができる。回国聖は六十六部経聖と言われ、江戸時代にはおとしめられて六十六部または六部の略称でよばれたていた。
六道のそれぞれにあって衆生の苦しみを救う6体の地蔵菩薩(ぼさつ)。地獄道の檀陀(だんだ)、餓鬼道の宝珠(ほうじゅ)、畜生道の宝印、修羅道の持地(じじ)、人間道の除蓋障(じょがいしょう)、天道の日光の各地蔵菩薩とするが異説もある。
鎌倉中期の僧。1239~1289年。時宗(じしゅう)の開祖。延暦寺に入り太宰府で法然の孫弟子聖達に浄土教を学ぶ。他力念仏を唱え衆生済度のため、民衆に踊り念仏を勧め全国を遊行した。
法然上人の弟子の親鸞上人を開祖とする浄土教の一派。浄土三部経を所依の経典とするが、特に無量寿経により阿弥陀仏の本願の信心を重視し、称名念仏は仏恩報謝の行であるとするのを宗旨とする。門徒宗、一向宗とも呼ばれます。
鎌倉時代、中国を支配していたモンゴル軍による日本侵攻。文永の役(1274年)と弘安の役(1281年)の2回があり、いずれも北部九州が戦場となった。弘安の役では約4400隻の元寇船が襲来し鷹島沖に集結したが停泊中に暴風雨に遭遇して多くが沈没したとされる。元軍を撃退したこの暴風雨は神風と呼ばれた。
鎌倉幕府は第8代執権北条時宗。文永の役後、博多湾沿岸の防備体制の強化、鎮西奉行の設置などを行なったため九州御家人には多大の軍事的、経済的負担を負わせ武士社会に深刻な状況を招いた。
真言密教の教主。諸仏、諸菩薩の根元をなす理智体で宇宙の実相を仏格化した根本仏とされる。智徳の表現が金剛界大日、理徳の表現が胎蔵界大日とされ、天台宗では大日如来と釈迦如来は法身、応身で同体とし、真言宗では釈迦如来は顕教の教主とみて異体とする。