銭洗い弁天(銭洗弁財天宇賀福神社) 


 寺社の種類:神社
 創建の時期:文治元年(1185年)
 主祭神:市杵島姫命、奥宮:宇賀神(弁財天)
 本殿の様式:-
 所在地:神奈川県鎌倉市佐助2-25-16
 訪問日:2015年1月13日

 

源頼朝が霊夢に従い佐助ヶ谷の岩壁に湧く霊水を見つけ、そこに洞を穿ち社を建て宇賀神を祀ったと伝えられところです。

銭洗い弁トンの入り口
入り口に案内板
御手水場
境内の中央に社務所

境内の岩窟より湧出する霊水で銭貨を洗えば福寿開運すると言われ多くの参拝客が訪れるところです。

参道に石碑
参道に続く石鳥居
銭洗い弁天の拝殿
霊水が湧く岩窟
お金を洗います
岩窟に社

源氏山公園から舗装道路を下ると銭洗い弁天の入り口です。境内には宇賀福神社の社殿、その奥は霊水の湧く岩窟です。梶原太刀洗水、日蓮乞水、金龍水、不老水とともに鎌倉五名水の一つに数えられています。

岩窟に祀られる鳥居
上之水神宮の社
池の中に下之水神宮
七福神社

 市杵島姫尊・市寸島比売命(いちきしまひめのみこと)中津島姫命(なかつしまひめのみこと)

日本神話に登場する神、天照大神(あまてらすおおみかみ)素戔嗚尊(すさのおのみこと)との誓約(うけい)の時に生まれた宗像三女神の一です。福岡県の宗像大社の辺津(へつ)宮の祭神です。

神仏習合本地垂迹の考えのもと、市杵島姫神が美しい水の神であることからインドの神様である弁才天と同一視されました。

 

 宇賀神(うがじん)

仏教の穀物神。転じて福の神とされるため、弁財天と同一視され、密教にもとりいれられた。多くは白蛇の形をとる。

 

 源頼朝(みなもとよりとも)

1147~1199年 鎌倉幕府初代将軍。義朝の三男。平治の乱のち伊豆蛭ヶ小島に配流される。1180年以仁王もちひとおうの平氏追討の令旨に応じ挙兵。石橋山の戦いに敗れ安房に逃げたが東国武士の来援を得て関東を制し鎌倉にはいって根拠地とした。平維盛の追討軍を富士川に破り弟の範頼・義経を西上させ、85年壇ノ浦で平氏を討滅し全国を平定。全国に守護・地頭を設置、武家政治の基礎を確立。

 

 天照大神、天照大御神(あまてらすおおかみ)大日女尊(おおひるめのみこと)・大日霊貴神(おおひるめのむちのかみ)

日本神話で高天原(たかまがはら)の主神。伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の娘。太陽神であり皇室の祖神として伊勢神宮の内宮に祭られています。

素戔嗚尊(すさのおのみこと)の乱暴に天の岩戸にこもり国中が暗闇になったという岩戸神話や孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を葦原中国に降臨させた天孫降臨の神話が知られています。

 

 素戔嗚尊・須佐之男命(すさのうのみこと)

日本神話に登場する神で出雲神話の祖神とされています。伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)の子で天照大神の弟とされています。

高天ヶ原で多くの乱暴を行ったことで天照大神が怒り天の岩戸にこもり、高天ヶ原から追放されました。出雲に下り八岐大蛇を退治し奇稲田姫命(くしなだひめ)を救ったとされています。

 

 宗像三女神

市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)、湍津姫神(たぎつひめのかみ)、田心姫神(たごりひめのかみ)の総称

宗像大社で海上交通の守護神として祀られ、田心姫神が沖津島の沖津宮に、湍津姫神が大島の中津宮、市杵島姫神が田島の辺津宮に祀られています。

 

 神仏習合(しんぶつしゅうごう)神仏混淆(しんぶつこんこう)

日本古来の神と外来宗教である仏教とを結びつけた信仰のこと。すでに奈良時代から寺院に神が祀られたり、神社に神宮寺が建てられたりした。平安時代頃からは本格的な本地垂迹(ほんじすいじやく)説が流行し、中世になって両部神道などが成立した。

 

 本地垂迹(ほんちすいじゃく)

菩薩や仏陀がかりに神の姿をとって垂迹するという説、神は権現と呼ばれるようになった。神の正体とされる仏を本地仏と言う。神々に付会される仏は、宗派、信仰、寺院、神社によって異なる。

 

 市杵島姫尊・市寸島比売命(いちきしまひめのみこと)中津島姫命(なかつしまひめのみこと)

日本神話に登場する神、天照大神(あまてらすおおみかみ)素戔嗚尊(すさのおのみこと)との誓約(うけい)の時に生まれた宗像三女神の一です。福岡県の宗像大社の辺津(へつ)宮の祭神です。

神仏習合本地垂迹の考えのもと、市杵島姫神が美しい水の神であることからインドの神様である弁才天と同一視されました。

 

 弁才天・弁財天(べんざいてん)

インドの河神で音楽・智恵・財物の神として吉祥天とともに広く信仰された女神。

仏教に取り入れられ吉祥天と同一視されるようになった。八本の手で各種の武具を持つ像もあるが、鎌倉時代には二手で琵琶を持つ女神像が一般化した。日本では七福神の一人として民衆の信仰を集めてきた。

 

 平治の乱(へいじのらん)

保元の乱(ほげんのらん)の後、平治1年(1159年)12月、京都に勃発した内乱。後白河上皇の近臣間の暗闘が源平武士団の対立に結びつき、藤原信頼・源義朝による上皇幽閉、藤原通憲(信西)殺害という事件に発展した。しかし平清盛の計略によって上皇は脱出し、激しい合戦のすえ源氏方は敗北した。これ以後、平氏の政権が成立した。

 

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