生糸貿易により財を成した実業家、原富太郎が私財を投入して造成した日本庭園です。東京湾を望む本牧に明治35年(1902年)頃より造成が始まり大正3年(1914年)には外苑、大正3年(1922年)には内苑が完成しました。
実業家として成功を収めた原富太郎は三溪と号し、1906年(明治39)三溪園を無料開園するほか、美術品の蒐集や芸術家の支援、育成を行ったと言います。園内の三溪記念館には収集された書画のほか三溪自身の書画も展示されていました。
三渓園の外苑には鶴翔閣のほか旧東慶寺の仏殿や旧燈明寺の本堂、大きな茅葺屋根の旧矢箆原家住宅があります。小高い丘の上にそびえる旧燈明寺の三重塔は三渓園のシンボルとしてポスターなどでもお馴染みです。
内苑には臨春閣や天授院、聴秋閣、春草廬などが木立の中に建っています。よく整備された庭園は四季折々の花が咲くところと言います。この時期は大池の周辺にハナショウブ、蓮池にはピンク色のハスが咲き始めていました。