横須賀線踏切近くに扇ヶ谷上杉管領屋敷跡碑が建っています。上杉氏は、1252年(建長4年)、第六代将軍宗尊親王が鎌倉に下向する際、上杉重房が親王に従って下向してきたのがそのはじまりです。
足利尊氏が室町幕府を開くと4男の基氏が鎌倉に入り鎌倉公方と呼ばれました。その補佐役の関東管領には上杉憲顕が就任し以後、関東管領の地位は上杉家(山内、犬懸、扇谷、宅間)が世襲すことになりました。
しかし鎌倉公方と関東管領は次第に対立するようになり1416年(応永23年)には上杉禅秀の乱、1438年(永享10年)には永享の乱が起こり上杉家は山内、扇谷の二家になります。
それ以降も鎌倉公方と関東管領の対立が続き1454年(享徳3年)には享徳の乱、1487年(長享元年)には長享の乱など、関東は戦乱の渦に巻き込まれることになります。
16世紀に入ると関東に勢力を伸ばした後北条氏と対立するようになります。1546年(天文15年)河越夜戦において古賀公方、関東管領上杉憲正、扇谷上杉朝定の連合軍は北条氏康に敗れ扇谷上杉家は滅亡します。
その後、上杉憲政は越後の長尾氏を頼るようになります。1561年(永禄4年)山内上杉家の家督と関東管領の職を長尾景虎に譲りました。景虎は名を上杉政虎(後に輝虎・法名は謙信)と改めことになります。
上杉重顕を始祖とする上杉氏諸家の一つ。戦国時代には河越城に本拠を移し、武蔵国を拠点とする大名となり、南関東に勢力を扶植した。山内上杉と並び両上杉と称されるが、関東管領を務めたことはない。鎌倉の扇谷に屋敷を置いたことが家名の由来。
室町幕府が関東8ヶ国と伊豆、甲斐の支配を支配のため置いた鎌倉府の首長で鎌倉殿、鎌倉御所、関東公方、関東御所とも呼ばれます。足利尊氏の二男基氏(もとうじ)が貞和5年(1349年) 鎌倉に移ったのに始まり、氏満(うじみつ)、満兼(みつかね)、持氏(もちうじ)、成氏(しげうじ)と世襲されました。康正1年 (1455年)年成氏が古河に移るまで続いきました。
鎌倉公方を補佐すべく任命された官職。足利尊氏は鎌倉公方を補佐すべく斯波家長を関東管領に任じました。その没後は上杉憲顕と高師冬(こうのもろふゆ)が就任しました。
観応の擾乱の足利直義と高師直の対立は、上杉憲顕と高師冬の対立となり高師冬は上杉能憲に攻められ自殺しました。このあと関東管領は上杉氏が世襲することになります。
上杉氏は山内(やまのうち)、扇谷(おうぎがやつ)、犬懸(いぬがけ)、宅間(たくま)の4家に分かれ交代で関東管領に就任した。
上杉氏の勢力が強化されると、永享10年(1438年)鎌倉公方足利持氏(もちうじ)と武力衝突するまでに発展し上杉氏は持氏を敗死させた永享(えいきょう)の乱が起こります。
鎌倉府の家臣らの要請で持氏の子成氏(しげうじ)が鎌倉公方に就任しましたが、上杉憲忠(のりただ)を殺害した享徳の乱が発生し成氏は古河に移ることになります。以後管領上杉氏が公方にかわり関東を支配するようになりました。
戦国時代になると後北条氏など新勢力が台頭し、関東管領山内上杉憲政は越後の長尾氏を頼って逃れ管領職を長尾景虎(上杉謙信)に譲りました。謙信は関東管領として関東を支配しようとしたが後北条氏、武田氏らにはばまれて失敗、謙信の死後は関東管領は名実ともに消滅しました。
永享10年(1438年)鎌倉公方(くぼう)足利持氏(あしかがもちうじ)が将軍足利義教(あしかがよしのり)に対して起こした反乱。義教は今川氏らに討伐を命じ、持氏は鎌倉永安寺で自害した。この乱は持氏の遺子を奉じた結城合戦へと発展していく。
享徳3年(1454年)から1482年まで続いた関東の大乱。鎌倉公方の足利成氏(あしかがしげうじ)が関東管領の山内上杉、扇谷上杉と対立し、上杉憲忠を謀殺し勃発。山内上杉家は房顕を後継者とし幕府は今川範忠を起用して成氏討伐に向かわせた。
康正元年(1455年)範忠は成氏を破って鎌倉に入った。成氏は古河に敗走し古河公方と称するようになる。以後、関東は利根川を挟んで古河公方と上杉氏とが対立し、30年に亘る争いが続く。
伊勢宗瑞(北条早雲)を始祖とし、氏綱、氏康、氏政、氏直と5代にわたり相模の小田原城を本拠として関東に雄飛した戦国大名。北条早雲は1476年(文明8年)に今川家内紛の調停役として歴史の舞台に登場した。
やがて駿河の興国寺城主となり、1491年(延徳3)には足利茶々丸を討って伊豆を平定し韮山城に移る。1495年(明応4)小田原城に大森藤頼を攻めてこれを奪い関東進出の第一歩をしるした。
戦国時代、後北条氏の北条氏綱が武蔵国征服のため上杉氏の河越城の争奪を巡って争った一連の戦い。大永4年(1524年)から4度にわたる争奪戦が展開されたが、関東の政局を決定した大きな戦いとなった5度目の天文15年(1546年)の戦いで、日本三大奇襲の一つ河越夜戦(かわごえよいくさ)である。
当主を失った扇谷上杉家は滅亡、本拠平井城へ敗走した山内上杉家もこの後急速に勢力を失うことになる。
足利成氏(あしかがしげうじ)は享徳3年(1454年)関東管領上杉憲忠を謀殺したことで幕府から追討を受ける身となり下総古河に居を移し古河公方となりました。天正11年(1583年)義氏が没して男子がなくなるまでの5代で続きました。
1515~1571年、戦国時代の武将。後北条氏第3代。北条氏綱の子。1551年、扇谷上杉氏・山内上杉氏を河越に破り、1561年の小田原城の戦いでは上杉謙信を敗走させた。伊豆・相模・武蔵・上野を領有し後北条氏の全盛期を築いた。
上杉重顕を始祖とする上杉氏諸家の一つ。戦国時代には河越城に本拠を移し、武蔵国を拠点とする大名となり、南関東に勢力を扶植した。山内上杉と並び両上杉と称されるが、関東管領を務めたことはない。鎌倉の扇谷に屋敷を置いたことが家名の由来。
室町時代に関東地方に割拠した上杉氏の諸家のひとつ。足利尊氏・直義兄弟の母方の叔父上杉憲房の子で、上野・越後・伊豆の守護を兼ねた上杉憲顕に始まる家で、鎌倉の山内に居館を置いた。関東管領職も務めた。
1530~1578年、戦国時代の武将。越後守護代長尾為景の子。景虎、政虎、輝虎と改名する。越後春日山城にあって北陸地方一帯を領有、小田原北条氏、甲斐武田氏と対抗した。特に武田信玄との川中島の戦いは有名。
足利氏が京都に開いた幕府。1336年足利尊氏の建武式目制定をもって創始された武家政権。鎌倉幕府の制度・機構をほぼ継承して発足し、南北朝合体によって全国統一政権となった。しかし守護領国制の発展による地方分権化に対抗しえず、特に応仁の乱以降は、群雄割拠の戦国時代と化し1573年一五代義昭が織田信長に追放され滅亡。
1305~1358年、室町幕府の初代将軍(在職1338~1358)元弘の乱で建武の中興のきっかけをつくる働きをした。のち後醍醐天皇にそむき1336年光明天皇を擁立し室町幕府を開いて南朝と対立した。夢窓疎石に帰依し天竜寺などを建立。
1305~1358年、室町幕府の初代将軍(在職1338~1358)元弘の乱で建武の中興のきっかけをつくる働きをした。のち後醍醐天皇にそむき1336年光明天皇を擁立し室町幕府を開いて南朝と対立した。夢窓疎石に帰依し天竜寺などを建立。
室町幕府草創期、足利尊氏(たかうじ)と弟の直義(ただよし)による二頭政治が行われたが直義と尊氏の執事の高師直(こうのもろなお)などのの対立ら貞和5年(1349年)から観応3年(1352年)まで続いた内部抗争です。一時和睦したが、観応3年(1352年)直義は鎌倉で毒殺された。
永享10年(1438年)鎌倉公方(くぼう)足利持氏(あしかがもちうじ)が将軍足利義教(あしかがよしのり)に対して起こした反乱。義教は今川氏らに討伐を命じ、持氏は鎌倉永安寺で自害した。この乱は持氏の遺子を奉じた結城合戦へと発展していく。
1434~1497年、室町時代の武将。1449年、第5代鎌倉公方。1454年関東管領上杉憲忠を殺害して享徳の乱を引き起こした。1455年下総古河城に移って古河公方と称し堀越公方と関東の支配権をめぐって対抗した。
享徳3年(1454年)から1482年まで続いた関東の大乱。鎌倉公方の足利成氏(あしかがしげうじ)が関東管領の山内上杉、扇谷上杉と対立し、上杉憲忠を謀殺し勃発。山内上杉家は房顕を後継者とし幕府は今川範忠を起用して成氏討伐に向かわせた。
康正元年(1455年)範忠は成氏を破って鎌倉に入った。成氏は古河に敗走し古河公方と称するようになる。以後、関東は利根川を挟んで古河公方と上杉氏とが対立し、30年に亘る争いが続く。
1530~1578年、戦国時代の武将。越後守護代長尾為景の子。景虎、政虎、輝虎と改名する。越後春日山城にあって北陸地方一帯を領有、小田原北条氏、甲斐武田氏と対抗した。特に武田信玄との川中島の戦いは有名。
永享12年(1440年)結城氏朝が下総結城城に鎌倉公方足利持氏の遺子春王、安王を奉じて幕府軍に抗した戦い。室町幕府は上杉憲実、清方を討伐に向わせ嘉吉元年 (1441年)年結城城は落ち氏朝は自害した。春王、安王も捕えられ美濃の金蓮寺で斬られた。
1434~1497年、室町時代の武将。1449年、第5代鎌倉公方。1454年関東管領上杉憲忠を殺害して享徳の乱を引き起こした。1455年下総古河城に移って古河公方と称し堀越公方と関東の支配権をめぐって対抗した。
1434~1497年、室町時代の武将。1449年、第5代鎌倉公方。1454年関東管領上杉憲忠を殺害して享徳の乱を引き起こした。1455年下総古河城に移って古河公方と称し堀越公方と関東の支配権をめぐって対抗した。
1434~1497年、室町時代の武将。1449年、第5代鎌倉公方。1454年関東管領上杉憲忠を殺害して享徳の乱を引き起こした。1455年下総古河城に移って古河公方と称し堀越公方と関東の支配権をめぐって対抗した。
足利成氏(あしかがしげうじ)は享徳3年(1454年)関東管領上杉憲忠を謀殺したことで幕府から追討を受ける身となり下総古河に居を移し古河公方となりました。天正11年(1583年)義氏が没して男子がなくなるまでの5代で続きました。
上杉重顕を始祖とする上杉氏諸家の一つ。戦国時代には河越城に本拠を移し、武蔵国を拠点とする大名となり、南関東に勢力を扶植した。山内上杉と並び両上杉と称されるが、関東管領を務めたことはない。鎌倉の扇谷に屋敷を置いたことが家名の由来。
1434~1497年、室町時代の武将。1449年、第5代鎌倉公方。1454年関東管領上杉憲忠を殺害して享徳の乱を引き起こした。1455年下総古河城に移って古河公方と称し堀越公方と関東の支配権をめぐって対抗した。
足利成氏(あしかがしげうじ)は享徳3年(1454年)関東管領上杉憲忠を謀殺したことで幕府から追討を受ける身となり下総古河に居を移し古河公方となりました。天正11年(1583年)義氏が没して男子がなくなるまでの5代で続きました。
伊勢宗瑞(北条早雲)を始祖とし、氏綱、氏康、氏政、氏直と5代にわたり相模の小田原城を本拠として関東に雄飛した戦国大名。北条早雲は1476年(文明8年)に今川家内紛の調停役として歴史の舞台に登場した。
やがて駿河の興国寺城主となり、1491年(延徳3)には足利茶々丸を討って伊豆を平定し韮山城に移る。1495年(明応4)小田原城に大森藤頼を攻めてこれを奪い関東進出の第一歩をしるした。
1487~1541年、戦国時代の武将。後北条氏第2代。早雲(伊勢宗瑞)の子。1524年(大永4)江戸城に扇谷上杉朝興を攻め川越城に敗走させて武蔵に進出した。鎌倉の鶴岡八幡宮の造営した、
上杉重顕を始祖とする上杉氏諸家の一つ。戦国時代には河越城に本拠を移し、武蔵国を拠点とする大名となり、南関東に勢力を扶植した。山内上杉と並び両上杉と称されるが、関東管領を務めたことはない。鎌倉の扇谷に屋敷を置いたことが家名の由来。
室町時代に関東地方に割拠した上杉氏の諸家のひとつ。足利尊氏・直義兄弟の母方の叔父上杉憲房の子で、上野・越後・伊豆の守護を兼ねた上杉憲顕に始まる家で、鎌倉の山内に居館を置いた。関東管領職も務めた。
伊勢宗瑞(北条早雲)を始祖とし、氏綱、氏康、氏政、氏直と5代にわたり相模の小田原城を本拠として関東に雄飛した戦国大名。北条早雲は1476年(文明8年)に今川家内紛の調停役として歴史の舞台に登場した。
やがて駿河の興国寺城主となり、1491年(延徳3)には足利茶々丸を討って伊豆を平定し韮山城に移る。1495年(明応4)小田原城に大森藤頼を攻めてこれを奪い関東進出の第一歩をしるした。
1305~1358年、室町幕府の初代将軍(在職1338~1358)元弘の乱で建武の中興のきっかけをつくる働きをした。のち後醍醐天皇にそむき1336年光明天皇を擁立し室町幕府を開いて南朝と対立した。夢窓疎石に帰依し天竜寺などを建立。
鎌倉公方を補佐すべく任命された官職。足利尊氏は鎌倉公方を補佐すべく斯波家長を関東管領に任じました。その没後は上杉憲顕と高師冬(こうのもろふゆ)が就任しました。
観応の擾乱の足利直義と高師直の対立は、上杉憲顕と高師冬の対立となり高師冬は上杉能憲に攻められ自殺しました。このあと関東管領は上杉氏が世襲することになります。
上杉氏は山内(やまのうち)、扇谷(おうぎがやつ)、犬懸(いぬがけ)、宅間(たくま)の4家に分かれ交代で関東管領に就任した。
上杉氏の勢力が強化されると、永享10年(1438年)鎌倉公方足利持氏(もちうじ)と武力衝突するまでに発展し上杉氏は持氏を敗死させた永享(えいきょう)の乱が起こります。
鎌倉府の家臣らの要請で持氏の子成氏(しげうじ)が鎌倉公方に就任しましたが、上杉憲忠(のりただ)を殺害した享徳の乱が発生し成氏は古河に移ることになります。以後管領上杉氏が公方にかわり関東を支配するようになりました。
戦国時代になると後北条氏など新勢力が台頭し、関東管領山内上杉憲政は越後の長尾氏を頼って逃れ管領職を長尾景虎(上杉謙信)に譲りました。謙信は関東管領として関東を支配しようとしたが後北条氏、武田氏らにはばまれて失敗、謙信の死後は関東管領は名実ともに消滅しました。