太田道灌は扇谷上杉家の家宰、江戸城の築城のほか岩槻、河越にも築城するなど武蔵、相模の有力武将の一人です。「七重八重 花は咲けども山吹の みのひとつだに なきぞ悲しき」の逸話でも知られる文武両道の武将です。
1432~1486年、室町中期の武将。上杉定正の執事となり江戸城を築城。山内上杉家の内紛を鎮圧したが、かえって扇谷上杉家の勢力増大を恐れた山内上杉顕定(あきさだ)方の讒言により、主君定正のため謀殺された。兵法に長じ、和漢の学問や和歌にもすぐれた。
上杉重顕を始祖とする上杉氏諸家の一つ。戦国時代には河越城に本拠を移し、武蔵国を拠点とする大名となり、南関東に勢力を扶植した。山内上杉と並び両上杉と称されるが、関東管領を務めたことはない。鎌倉の扇谷に屋敷を置いたことが家名の由来。