両子寺は国東半島の中央に位置する両子山の山腹に位置し、国東半島の六郷満山の中では中山本寺、すなわち山岳修行の根本道場です。江戸時代には杵築藩の最高祈願所となり、六郷満山の総持院として満山を統括する立場にありました。
曲がりくねった山道を登って行くと広い駐車場です。古い石段を登って行くと大きな護摩堂がありす。護摩堂の軒先には色とりどりの千社札を張りつけた額が掲げられていました。
護摩堂からは杉林の中を登って行きます。神仏習合の名残である石の鳥居をくぐると古い狛犬、まさに神社の雰囲気が残る石段を登ると奥ノ院です。石段の脇にはの古い国東塔もあります。
千手観音菩薩を祀る奥ノ院は舞台づくりで、見上げる岩山の下には石仏が祀られた岩窟もありました。
境内には稲荷堂や三面大国堂、真新しい大講堂もありました。奥ノ院の途中からは百体観音や鬼の背割りなどの通り両子山の山頂へ向かうハイキングコースもあると言います。
六郷満山は国東半島にある寺院の総称です。養老2年(718年)に仁聞菩薩(にんもんぼさつ)が国東半島に28の寺院を開創し、6万9千体の仏像を安置したと伝えられています。天台宗の密教寺院と宇佐神宮の八幡信仰が融合し独自の山岳仏教が信仰され、現在でも両子寺を含む33の寺院が国東六郷満山霊場として順拝されています。
法華経を根本経典とする大乗仏教の一派。575年隋の智顗(ちぎ)が天台山にこもって大成。日本へは奈良時代に唐僧鑑真(がんじん)が初めて伝え、平安初期に最澄が比叡山に延暦寺を建て開宗。のち山門派と寺門派、さらに真盛(しんぜい)派に分かれた。
大乗仏教の仏。西方の極楽浄土の教主で生あるものすべてをすくう仏様。念仏により浄土に往生できるという阿弥陀信仰が鎌倉時代にさかんになり、浄土宗、浄土真宗、時宗などの浄土教宗派が成立した。
阿弥陀如来像は質素な形で如来の通相と呼ばれる姿をしています。小指を除く三指と親指で輪にした九品来迎印(くぼんらいごういん)を結んでいるのが特徴です。
日本古来の神と外来宗教である仏教とを結びつけた信仰のこと。すでに奈良時代から寺院に神が祀られたり、神社に神宮寺が建てられたりした。平安時代頃からは本格的な本地垂迹(ほんじすいじやく)説が流行し、中世になって両部神道などが成立した。
大分県国東半島を中心に分布する宝塔の一種。一般の宝塔が台座を有さないのに対して、国東塔は基礎と塔身の間に反花または蓮華座、ものによっては双方からなる台座を有するのが外観上の特徴。納経、家門繁栄祈願、墓標、逆修(死後の冥福を祈って仏事を行うこと)など目的で建立された。
六観音の一つ。限りない慈悲を表す菩薩で、千の慈悲の眼と千の慈悲の手をそなえ、生ある者を救うという。二七面四二臂の像が一般的。千手千眼観世音。千眼千臂観世音。
法華経を根本経典とする大乗仏教の一派。575年隋の智顗(ちぎ)が天台山にこもって大成。日本へは奈良時代に唐僧鑑真(がんじん)が初めて伝え、平安初期に最澄が比叡山に延暦寺を建て開宗。のち山門派と寺門派、さらに真盛(しんぜい)派に分かれた。
中国、唐代の高僧。日本律宗の開祖。揚州大明(たいめい)寺で戒律を講じ名声があった。742年日本僧栄叡(ようえい)らの請に応じて来日を志したが海賊や風波の災で5度挫折の後、754年渡来した。
法然上人の弟子の親鸞上人を開祖とする浄土教の一派。浄土三部経を所依の経典とするが、特に無量寿経により阿弥陀仏の本願の信心を重視し、称名念仏は仏恩報謝の行であるとするのを宗旨とする。門徒宗、一向宗とも呼ばれます。
菩薩や仏陀がかりに神の姿をとって垂迹するという説、神は権現と呼ばれるようになった。神の正体とされる仏を本地仏と言う。神々に付会される仏は、宗派、信仰、寺院、神社によって異なる。
六観音は六道輪廻の思想に基づき、六種の観音が六道に迷う衆生を救うという考えから生まれたもの。地獄道 - 聖観音、餓鬼道 - 千手観音、畜生道 - 馬頭観音、修羅道 - 十一面観音、人道 - 准胝観音、天道 - 如意輪観音とされる。天台系では准胝観音の代わりに不空羂索観音を加えて六観音とする。
中国、唐代の高僧。日本律宗の開祖。揚州大明(たいめい)寺で戒律を講じ名声があった。742年日本僧栄叡(ようえい)らの請に応じて来日を志したが海賊や風波の災で5度挫折の後、754年渡来した。