小倉城(勝山城、指月城) 


 城郭の構造:輪郭式平城
 築城の時期:戦国末期(1569年)毛利勝信が現在の地に築城、慶長7年(1602年)細川忠興が改修
 廃城の時期:慶応2年(1866年)
 主な城主:細川氏、小笠原氏
 所在地:福岡県北九州市小倉北区城内2?1
 訪問日:2011年5月27日

 

小倉城は江戸時代の初め毛利勝信が現在の城郭を築き、そののち細川忠興が南蛮風の天守閣を建てたと言います。細川氏が肥後に移ると徳川譜代の小笠原氏が藩主となりました。

第2次長州討伐では小倉藩と長州藩の戦闘で落城しました。高杉新作の騎兵隊が活躍したのはこの時のことと言います。明治に入ってから陸軍の第十二師団司令部が置かれました。

小倉城の案内板
大きな石を積み重ねる石垣
槻門跡
天守閣への入口
天守閣
本丸跡にあった茶筌塚

大きな石を積み重ねた石垣を回り込むように城内に入ると松林の中にコンクリート造りの天守閣がそびえています。松林の中には筆塚や生け花に関する石碑などがあります。

大きな筆塚
陸軍12師団の正門跡
陸軍12師団司令部跡の石碑
城内には山砲
青く水をたたえるお堀
お堀の先にはビル街

赤レンガの門跡は第十二師団の正門跡とか。高瀬舟、阿部一族などの作品を残した明治の文豪森鴎外も陸軍の軍医としてこの門を通っていたのでしょう。

天守閣は資料館となっているようですがまだ開館には時間があるようです。とりあえず近くの八坂神社を参拝することにしました。

 毛利勝信(もうりかつのぶ)

?~1611年、織豊時代の武将。豊臣秀吉につかえ、天正15年(1587年)豊前小倉6万石の城主となる。関ケ原の戦いで西軍に属し敗れる。子の勝永とともに土佐高知藩主山内一豊(かずとよ)にあずけられた。

 

 細川忠興(ほそかわただおき)

1563~1645年、安土桃山から江戸初期の武将。細川幽斎の子。織田信長豊臣秀吉に仕え丹後宮津城主。関ヶ原の戦いでは徳川方に属し小倉10万石を領した。和歌・絵画・有職故実に通じ茶の湯は千利休門下七哲の一人。室はガラシャ。

 

 毛利勝信(もうりかつのぶ)

?~1611年、織豊時代の武将。豊臣秀吉につかえ、天正15年(1587年)豊前小倉6万石の城主となる。関ケ原の戦いで西軍に属し敗れる。子の勝永とともに土佐高知藩主山内一豊(かずとよ)にあずけられた。

 

 細川忠興(ほそかわただおき)

1563~1645年、安土桃山から江戸初期の武将。細川幽斎の子。織田信長豊臣秀吉に仕え丹後宮津城主。関ヶ原の戦いでは徳川方に属し小倉10万石を領した。和歌・絵画・有職故実に通じ茶の湯は千利休門下七哲の一人。室はガラシャ。

 

 高杉晋作(たかすぎしんさく)

1839~1867年、幕末の志士。長州藩士。吉田松陰門下。下関砲撃に備えて奇兵隊を結成、また1865年以降、藩の主導権を握って藩論を倒幕に転換、第二次長州征伐の幕府軍を圧した。

 

 森鴎外(もりおうがい)

1862~1922年、小説家・評論家・翻訳家・軍医。島根の生まれ。陸軍軍医としてドイツに留学。軍医として昇進する一方、翻訳・評論・創作・文芸誌刊行などの多彩な文学活動を展開した。翻訳としては於母影(おもかげ)、即興詩人、ファウスト、小説には舞姫、青年、雁、阿部一族、高瀬舟、渋江抽斎がある。

 

 豊臣秀吉(とよとみひでよし)

1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀・柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。

天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。

 

 関ヶ原の戦

慶長5年(1600年)関ヶ原で石田三成らの西軍と徳川家康らの東軍とが天下を争った戦い。小早川秀秋の寝返りにより東軍が大勝した。石田三成らは処刑され豊臣秀頼は60万石の大名に転落した。これにより徳川氏の覇権が確立した。

 

 山内一豊(やまのうちかずとよ)

1546~1605年、安土桃山・江戸初期の武将。土佐藩祖。織田信長豊臣秀吉に仕え遠江掛川五万石を領した。関ヶ原の戦いでは徳川方に属し、戦後土佐20万石の領主となる。信長の馬揃えにあたり妻が鏡の裏から秘蔵の金を出し、一豊に名馬を買わせた内助の功の話が伝わる。

 

 織田信長(おだのぶなが)

1534~1582年、戦国・安土桃山時代の武将。織田信秀の子。桶狭間に今川義元を討って尾張一国を統一。京都に上って比叡山を焼き、浅井氏・朝倉氏を破り、将軍足利義昭(あしかがよしあき)を追放、武田勝頼を三河の長篠に破った。中国出陣の途中、京都本能寺で明智光秀の謀反にあった。

 

 豊臣秀吉(とよとみひでよし)

1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀・柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。

天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。

 

 関ヶ原の戦

慶長5年(1600年)関ヶ原で石田三成らの西軍と徳川家康らの東軍とが天下を争った戦い。小早川秀秋の寝返りにより東軍が大勝した。石田三成らは処刑され豊臣秀頼は60万石の大名に転落した。これにより徳川氏の覇権が確立した。

 

 豊臣秀吉(とよとみひでよし)

1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀・柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。

天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。

 

 関ヶ原の戦

慶長5年(1600年)関ヶ原で石田三成らの西軍と徳川家康らの東軍とが天下を争った戦い。小早川秀秋の寝返りにより東軍が大勝した。石田三成らは処刑され豊臣秀頼は60万石の大名に転落した。これにより徳川氏の覇権が確立した。

 

 山内一豊(やまのうちかずとよ)

1546~1605年、安土桃山・江戸初期の武将。土佐藩祖。織田信長豊臣秀吉に仕え遠江掛川五万石を領した。関ヶ原の戦いでは徳川方に属し、戦後土佐20万石の領主となる。信長の馬揃えにあたり妻が鏡の裏から秘蔵の金を出し、一豊に名馬を買わせた内助の功の話が伝わる。

 

 織田信長(おだのぶなが)

1534~1582年、戦国・安土桃山時代の武将。織田信秀の子。桶狭間に今川義元を討って尾張一国を統一。京都に上って比叡山を焼き、浅井氏・朝倉氏を破り、将軍足利義昭(あしかがよしあき)を追放、武田勝頼を三河の長篠に破った。中国出陣の途中、京都本能寺で明智光秀の謀反にあった。

 

 豊臣秀吉(とよとみひでよし)

1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀・柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。

天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。

 

 関ヶ原の戦

慶長5年(1600年)関ヶ原で石田三成らの西軍と徳川家康らの東軍とが天下を争った戦い。小早川秀秋の寝返りにより東軍が大勝した。石田三成らは処刑され豊臣秀頼は60万石の大名に転落した。これにより徳川氏の覇権が確立した。

 

 吉田松陰(よしだしょういん)

1830~1859、幕末の志士で思想家。長州藩の下級武士杉常道の子。10歳にして藩校明倫館で講義を行った。山鹿流軍学師範を務め、江戸に出て佐久間象山に師事。安政4年松下村塾をひらき高杉晋作、伊藤博文らに教えるが安政の大獄で刑死した。

 

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