飛鳥京跡(板葺宮跡) 


 観光地の種類:史跡
 所在地:奈良県高市郡明日香村岡
 訪問日:2009年2月21日

 

発掘が進んでいる遺跡は板葺の宮と伝えられるところです。

板葺の宮は642年に即位した皇極天皇の皇居です。645年には蘇我入鹿が暗殺された乙巳の変(いっしのへん)の舞台ともなった所です。こののち中大兄皇子により大化の改新が推し進められたのは歴史教科書でもお馴染みです。

板葺の宮の案内板
板葺の宮の発掘跡

この付近には天武天皇の飛鳥浄御原宮もあったとされ、発掘の結果が待たれるところです。

板葺の宮の発掘跡

 皇極天皇(こうぎょくてんのう)・天豊財重日足姫(あめとよたからいかしひたらしひめ)

第35代天皇(在位:642年1月15日~645年6月14日)茅渟王(ちぬのおおきみ)の王女。舒明天皇(じよめいてんのう)の皇后。天智天皇天武天皇の母。皇居は飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)。645年孝徳天皇(こうとくてんのう)に譲位し、その死後、重祚ちようそして斉明天皇(さいめいてんのう)となった。陵墓は奈良県高市郡高取町車木の越智崗上陵。

 

 蘇我入鹿(そがのいるか)

?~645年、蘇我蝦夷(そがのえみし)の子。天皇家と威勢を競い、聖徳太子の子山背大兄王を殺害。大化改新で中大兄皇子・中臣鎌足に殺された。

 

 天智天皇(てんじてんのう)中大兄皇子 (なかのおおえのおうじ)・天命開別(あめみことひらかすわけ)

第38代天皇(在位:668年1月3日~671年12月3日)舒明天皇第二皇子。645年(大化1)中臣鎌足と図って蘇我そが氏を滅ぼし、皇太子として改新政治を主導。即位後は都を大津に移し、近江令を制定した。また庚午年籍(こうごねんじやく)を作り、律令体制の基礎を築いた。陵墓は京都府京都市山科区御陵上御廟野町の山科陵。

 

 大化の改新(たいかのかいしん)

大化元年(645年)中大兄皇子(のちの天智天皇)・中臣鎌足らが蘇我氏を打倒して始めた古代政治史上の一大改革。中大兄皇子は孝徳天皇を即位させ自らは皇太子として実権を握った。公地公民制、地方行政組織の確立、班田収授法、租庸調の統一的税制の実施を中心とした改新の詔みことのりを発布した。氏姓制度による皇族・豪族の支配を否定して中央集権的支配の実現へと向かった。

 

 天武天皇(てんむてんのう)大海人皇子(おおあまのおうじ)、天渟中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)

第40代天皇(在位:673年2月27日~686年9月9日)舒明天皇第三皇子。天智天皇の皇太子となったが、天皇の死に際し吉野に退去。672年挙兵して大友皇子を破り、飛鳥浄御原(あすかきよみはら)に即位。国史の撰修に着手、八色姓(やくさのかばね)を制定し律令体制を推進した。陵墓は奈良県高市郡明日香村野口の檜隈大内陵。

 

 天智天皇(てんじてんのう)中大兄皇子 (なかのおおえのおうじ)・天命開別(あめみことひらかすわけ)

第38代天皇(在位:668年1月3日~671年12月3日)舒明天皇第二皇子。645年(大化1)中臣鎌足と図って蘇我そが氏を滅ぼし、皇太子として改新政治を主導。即位後は都を大津に移し、近江令を制定した。また庚午年籍(こうごねんじやく)を作り、律令体制の基礎を築いた。陵墓は京都府京都市山科区御陵上御廟野町の山科陵。

 

 天武天皇(てんむてんのう)大海人皇子(おおあまのおうじ)、天渟中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)

第40代天皇(在位:673年2月27日~686年9月9日)舒明天皇第三皇子。天智天皇の皇太子となったが、天皇の死に際し吉野に退去。672年挙兵して大友皇子を破り、飛鳥浄御原(あすかきよみはら)に即位。国史の撰修に着手、八色姓(やくさのかばね)を制定し律令体制を推進した。陵墓は奈良県高市郡明日香村野口の檜隈大内陵。

 

 孝徳天皇(こうとくてんのう)・天万豊日尊(あめのよろずとよひのみこと)

第36代天皇(在位:645年6月14日~654年10月10日)茅渟王(ちぬのおおきみ)の王子。大化改新に加わり、難波長柄豊碕宮(なにわのながらとよさきのみや)を都とした。陵墓は大阪府南河内郡太子町山田の大阪磯長陵。

 

 斉明天皇(さいめいてんのう)・天万豊日尊(あめのよろずとよひのみこと)

第37代天皇(在位:655年1月3日~661年7月24日)第35代皇極天皇の重祚。女帝。皇居は飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)、のち飛鳥岡本宮。百済くだら救援軍を率いて九州に下り、筑紫朝倉宮で病死。陵墓は奈良県高市郡高取町車木の越智崗上陵。

 

 蘇我蝦夷(そがのえみし)

?~645年、蘇我蝦夷えみしの子。天皇家と威勢を競い、聖徳太子の子山背大兄王を殺害。大化改新中大兄皇子・中臣鎌足に殺された。

 

 聖徳太子(しょうとくたいし)・厩戸皇子(うまやどのみこ)・豊聡耳 (とよとみみ)

574~622年、古代推古朝の摂政、用明天皇の皇子。推古天皇の皇太子となり摂政として内政・外交・仏教の興隆に力を尽した。

冠位十二階、十七条憲法を制定。豪族勢力を押えて中央集権的官僚国家建設の準備を整えた。外交面では任那回復のための新羅征討、小野妹子を隋に派遣して国交を開いた。

仏教を深く信仰し法隆寺、四天王寺などを建立し、仏典の注釈三経義疏を著わしたと伝えられる。

 

 天智天皇(てんじてんのう)中大兄皇子 (なかのおおえのおうじ)・天命開別(あめみことひらかすわけ)

第38代天皇(在位:668年1月3日~671年12月3日)舒明天皇第二皇子。645年(大化1)中臣鎌足と図って蘇我そが氏を滅ぼし、皇太子として改新政治を主導。即位後は都を大津に移し、近江令を制定した。また庚午年籍(こうごねんじやく)を作り、律令体制の基礎を築いた。陵墓は京都府京都市山科区御陵上御廟野町の山科陵。

 

 天智天皇(てんじてんのう)中大兄皇子 (なかのおおえのおうじ)・天命開別(あめみことひらかすわけ)

第38代天皇(在位:668年1月3日~671年12月3日)舒明天皇第二皇子。645年(大化1)中臣鎌足と図って蘇我そが氏を滅ぼし、皇太子として改新政治を主導。即位後は都を大津に移し、近江令を制定した。また庚午年籍(こうごねんじやく)を作り、律令体制の基礎を築いた。陵墓は京都府京都市山科区御陵上御廟野町の山科陵。

 

 天智天皇(てんじてんのう)中大兄皇子 (なかのおおえのおうじ)・天命開別(あめみことひらかすわけ)

第38代天皇(在位:668年1月3日~671年12月3日)舒明天皇第二皇子。645年(大化1)中臣鎌足と図って蘇我そが氏を滅ぼし、皇太子として改新政治を主導。即位後は都を大津に移し、近江令を制定した。また庚午年籍(こうごねんじやく)を作り、律令体制の基礎を築いた。陵墓は京都府京都市山科区御陵上御廟野町の山科陵。

 

 蘇我氏(そがし)

古代の豪族。武内宿禰(たけのうちのすくね)を祖とするというが未詳。大和朝廷の重臣として仏教など大陸文化の導入に貢献したが、大化元年(645年)蝦夷(えみし)、入鹿(いるか)父子は中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)らに滅ぼされた宗家は滅亡した。

 

 孝徳天皇(こうとくてんのう)・天万豊日尊(あめのよろずとよひのみこと)

第36代天皇(在位:645年6月14日~654年10月10日)茅渟王(ちぬのおおきみ)の王子。大化改新に加わり、難波長柄豊碕宮(なにわのながらとよさきのみや)を都とした。陵墓は大阪府南河内郡太子町山田の大阪磯長陵。

 

 天智天皇(てんじてんのう)中大兄皇子 (なかのおおえのおうじ)・天命開別(あめみことひらかすわけ)

第38代天皇(在位:668年1月3日~671年12月3日)舒明天皇第二皇子。645年(大化1)中臣鎌足と図って蘇我そが氏を滅ぼし、皇太子として改新政治を主導。即位後は都を大津に移し、近江令を制定した。また庚午年籍(こうごねんじやく)を作り、律令体制の基礎を築いた。陵墓は京都府京都市山科区御陵上御廟野町の山科陵。

 

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