直峰城(のうみねじょう) 


 城郭の構造:山城
 築城の時期:南北朝時代、築城主:風間信昭
 廃城の時期:1610年
 主な城主:風間氏、上杉氏、堀光親
 所在地:新潟県上越市安塚区安塚字倉苅門
 訪問日:2008年8月13日

 

直峰城は南北朝時代、南朝方の風間信昭が築いた城とされています。南朝方が壊滅すると上杉氏の支配下に組み込まれました。

北条氏康により関東を追われた関東管領上杉憲政の援助のため、関東に出兵する長尾景虎は三国峠への最短ルートと言うこともあり、繋ぎの城として直峰城を利用したと言います。

駐車場わきに城の案内板
家老の館跡
本丸の傍には大きな空掘跡
大きなケヤキ

上杉謙信死後に発生した御館の乱では、城主の長尾景明は当初影虎方に味方していました。後には景勝方の工作もあり景勝に味方したと言います。戦後の論功行賞では直江兼続の父、樋口兼豊が城代に任じられています。

本丸には案内板
南朝の雄であった風間信濃守顕彰

本丸からは駐車場に下って行きます。展望台に先には犬伏城が見えます。関東に出兵する上杉の軍勢は城の下を通る街道をたどり犬伏城へと進んでいったのでしょう。

犬伏城は稜線の上
家臣の屋敷跡には御館ノ乱の説明があります

 北条氏康(ほうじょううじやす)

1515~1571年、戦国時代の武将。後北条氏第3代。北条氏綱の子。1551年、扇谷上杉氏山内上杉氏を河越に破り、1561年の小田原城の戦いでは上杉謙信を敗走させた。伊豆・相模・武蔵・上野を領有し後北条氏の全盛期を築いた。

 

 上杉憲政(うえすぎのりまさ)

1523~1579年、戦国時代の武将。北条氏康に圧迫されて長尾景虎(上杉謙信)を頼り、のち上杉の名跡と関東管領職を譲った。

 

 上杉謙信(うえすぎけんしん)長尾景虎(ながおかげとら)

1530~1578年、戦国時代の武将。越後守護代長尾為景の子。景虎、政虎、輝虎と改名する。越後春日山城にあって北陸地方一帯を領有、小田原北条氏、甲斐武田氏と対抗した。特に武田信玄との川中島の戦いは有名。

 

 上杉謙信(うえすぎけんしん)長尾景虎(ながおかげとら)

1530~1578年、戦国時代の武将。越後守護代長尾為景の子。景虎、政虎、輝虎と改名する。越後春日山城にあって北陸地方一帯を領有、小田原北条氏、甲斐武田氏と対抗した。特に武田信玄との川中島の戦いは有名。

 

 御館の乱(おたてのらん)

1578年上杉謙信の没後、その後継を上杉景勝上杉景虎が争った戦乱。景勝はすぐに春日山城の本丸に入り二ノ丸に居た景虎は御館に移って対峙する。景虎は北条氏政に救援要請した。武田勝頼が景勝と甲越同盟が結ばれると景虎の側は劣勢になり御館が陥落すると景虎は鮫ヶ尾城で自刃した。

 

 上杉景虎(うえすぎかげとら)

1553?~1579年、戦国時代の武将。北条氏康の7男。はじめ上杉謙信の人質、のち謙信の養子となった。謙信の没後おなじ養子の上杉景勝と家督をあらそった御館の乱で敗北、鮫ヶ尾城で自刃した。

 

 上杉景勝(うえすぎかげかつ)

1555~1623年、安土桃山・江戸初期の武将。上杉謙信の養嗣子。豊臣秀吉の五大老に列し会津120万石を領した。関ヶ原の戦石田三成と結んで敗れ米沢30万石に減封された。

 

 直江兼続(なおえかねつぐ)

1560~1619年、安土桃山時代の武将。上杉景勝の執政。謙信急死後の御館の乱では景勝を助けて勝利に導いた。関ヶ原の戦い後、減封となった米沢藩上杉家の藩政確立に努めた。

 

 後北条氏(ごほうじょう)

伊勢宗瑞(北条早雲)を始祖とし、氏綱、氏康、氏政、氏直と5代にわたり相模の小田原城を本拠として関東に雄飛した戦国大名。北条早雲は1476年(文明8年)に今川家内紛の調停役として歴史の舞台に登場した。

やがて駿河の興国寺城主となり、1491年(延徳3)には足利茶々丸を討って伊豆を平定し韮山城に移る。1495年(明応4)小田原城に大森藤頼を攻めてこれを奪い関東進出の第一歩をしるした。

 

 北条氏綱(ほうじょううじつな)

1487~1541年、戦国時代の武将。後北条氏第2代。早雲(伊勢宗瑞)の子。1524年(大永4)江戸城に扇谷上杉朝興を攻め川越城に敗走させて武蔵に進出した。鎌倉の鶴岡八幡宮の造営した、

 

 扇谷上杉(おうぎがつやうえすぎ)

上杉重顕を始祖とする上杉氏諸家の一つ。戦国時代には河越城に本拠を移し、武蔵国を拠点とする大名となり、南関東に勢力を扶植した。山内上杉と並び両上杉と称されるが、関東管領を務めたことはない。鎌倉の扇谷に屋敷を置いたことが家名の由来。

 

 山内上杉(やまのうちうえすぎ)

室町時代に関東地方に割拠した上杉氏の諸家のひとつ。足利尊氏・直義兄弟の母方の叔父上杉憲房の子で、上野・越後・伊豆の守護を兼ねた上杉憲顕に始まる家で、鎌倉の山内に居館を置いた。関東管領職も務めた。

 

 後北条氏(ごほうじょう)

伊勢宗瑞(北条早雲)を始祖とし、氏綱、氏康、氏政、氏直と5代にわたり相模の小田原城を本拠として関東に雄飛した戦国大名。北条早雲は1476年(文明8年)に今川家内紛の調停役として歴史の舞台に登場した。

やがて駿河の興国寺城主となり、1491年(延徳3)には足利茶々丸を討って伊豆を平定し韮山城に移る。1495年(明応4)小田原城に大森藤頼を攻めてこれを奪い関東進出の第一歩をしるした。

 

 北条氏康(ほうじょううじやす)

1515~1571年、戦国時代の武将。後北条氏第3代。北条氏綱の子。1551年、扇谷上杉氏山内上杉氏を河越に破り、1561年の小田原城の戦いでは上杉謙信を敗走させた。伊豆・相模・武蔵・上野を領有し後北条氏の全盛期を築いた。

 

 上杉謙信(うえすぎけんしん)長尾景虎(ながおかげとら)

1530~1578年、戦国時代の武将。越後守護代長尾為景の子。景虎、政虎、輝虎と改名する。越後春日山城にあって北陸地方一帯を領有、小田原北条氏、甲斐武田氏と対抗した。特に武田信玄との川中島の戦いは有名。

 

 上杉景勝(うえすぎかげかつ)

1555~1623年、安土桃山・江戸初期の武将。上杉謙信の養嗣子。豊臣秀吉の五大老に列し会津120万石を領した。関ヶ原の戦石田三成と結んで敗れ米沢30万石に減封された。

 

 上杉景虎(うえすぎかげとら)

1553?~1579年、戦国時代の武将。北条氏康の7男。はじめ上杉謙信の人質、のち謙信の養子となった。謙信の没後おなじ養子の上杉景勝と家督をあらそった御館の乱で敗北、鮫ヶ尾城で自刃した。

 

 北条氏政(ほうじょううじまさ)

1538~1590年、戦国時代の武将。北条氏康の子。武田・佐竹氏らと戦い東海地方にも勢力を伸ばした。豊臣秀吉の小田原攻略に際し、籠城のすえ降伏、弟氏照と共に自刃した。

 

 武田勝頼(たけだかつより)

1546~1582年、戦国時代の武将。武田信玄の子。信玄没後家督を継ぎ美濃・遠江・三河に進出したが、長篠の戦いに大敗。以後衰運をたどり織田・徳川軍に追い詰められ天目山麓で自刃、武田氏は滅亡した。

 

 北条氏康(ほうじょううじやす)

1515~1571年、戦国時代の武将。後北条氏第3代。北条氏綱の子。1551年、扇谷上杉氏山内上杉氏を河越に破り、1561年の小田原城の戦いでは上杉謙信を敗走させた。伊豆・相模・武蔵・上野を領有し後北条氏の全盛期を築いた。

 

 上杉謙信(うえすぎけんしん)長尾景虎(ながおかげとら)

1530~1578年、戦国時代の武将。越後守護代長尾為景の子。景虎、政虎、輝虎と改名する。越後春日山城にあって北陸地方一帯を領有、小田原北条氏、甲斐武田氏と対抗した。特に武田信玄との川中島の戦いは有名。

 

 上杉景勝(うえすぎかげかつ)

1555~1623年、安土桃山・江戸初期の武将。上杉謙信の養嗣子。豊臣秀吉の五大老に列し会津120万石を領した。関ヶ原の戦石田三成と結んで敗れ米沢30万石に減封された。

 

 御館の乱(おたてのらん)

1578年上杉謙信の没後、その後継を上杉景勝上杉景虎が争った戦乱。景勝はすぐに春日山城の本丸に入り二ノ丸に居た景虎は御館に移って対峙する。景虎は北条氏政に救援要請した。武田勝頼が景勝と甲越同盟が結ばれると景虎の側は劣勢になり御館が陥落すると景虎は鮫ヶ尾城で自刃した。

 

 上杉謙信(うえすぎけんしん)長尾景虎(ながおかげとら)

1530~1578年、戦国時代の武将。越後守護代長尾為景の子。景虎、政虎、輝虎と改名する。越後春日山城にあって北陸地方一帯を領有、小田原北条氏、甲斐武田氏と対抗した。特に武田信玄との川中島の戦いは有名。

 

 豊臣秀吉(とよとみひでよし)

1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀・柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。

天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。

 

 関ヶ原の戦

慶長5年(1600年)関ヶ原で石田三成らの西軍と徳川家康らの東軍とが天下を争った戦い。小早川秀秋の寝返りにより東軍が大勝した。石田三成らは処刑され豊臣秀頼は60万石の大名に転落した。これにより徳川氏の覇権が確立した。

 

 石田三成(いしだみつなり)

1560~1600年、安土桃山時代の武将。豊臣秀吉に重用され、五奉行の一人として太閤検地などに活躍。秀吉の死後、遺子秀頼を擁ようして徳川家康と対立、関ヶ原の戦いに敗れ京で斬首された。

 

 上杉景勝(うえすぎかげかつ)

1555~1623年、安土桃山・江戸初期の武将。上杉謙信の養嗣子。豊臣秀吉の五大老に列し会津120万石を領した。関ヶ原の戦石田三成と結んで敗れ米沢30万石に減封された。

 

 関ヶ原の戦

慶長5年(1600年)関ヶ原で石田三成らの西軍と徳川家康らの東軍とが天下を争った戦い。小早川秀秋の寝返りにより東軍が大勝した。石田三成らは処刑され豊臣秀頼は60万石の大名に転落した。これにより徳川氏の覇権が確立した。

 

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