箕冠城は上杉氏の重臣大熊氏の居城です。のちに上杉謙信となる長尾景虎が出家隠棲して高野山に向かった時、大熊朝秀は武田信玄の誘いに応じて上杉に反旗を翻しました。
その後、駒帰の戦いで大熊朝秀は敗れ甲斐へと退くことになります。そのような歴史の一こまがこの城跡で繰り広げられたと言います。
駐車場から緩やかな道を登って行くと大きな池があります。ここからは空掘や土塁が残っていました。整備された階段を登って行くと広い本丸跡にたどり着きます。
本丸は広い平坦な山頂にあります。目の前には上越の田園風景が広がっていました。
1530~1578年、戦国時代の武将。越後守護代長尾為景の子。景虎、政虎、輝虎と改名する。越後春日山城にあって北陸地方一帯を領有、小田原北条氏、甲斐武田氏と対抗した。特に武田信玄との川中島の戦いは有名。
1521~1573年、戦国時代の武将。名は晴信。父、信虎を追放して家督を継ぎ信濃に進出する。越後の上杉謙信と川中島で激戦を展開した。1572年、西上の途次三方ヶ原(みかたがはら)で徳川家康を破ったが翌年三河の陣中で病没。軍略家としてすぐれ信玄家法を制定、鉱山開発・治水にも業績をあげた。
1530~1578年、戦国時代の武将。越後守護代長尾為景の子。景虎、政虎、輝虎と改名する。越後春日山城にあって北陸地方一帯を領有、小田原北条氏、甲斐武田氏と対抗した。特に武田信玄との川中島の戦いは有名。
1543~1616年、江戸幕府初代将軍。松平広忠の長男。織田信長と結んで駿河を、豊臣秀吉と和して関東を支配。豊臣秀吉の死後石田三成を関ヶ原の戦いに破り、慶長8年(1603年)征夷大将軍となって江戸に幕府を開いた。武家諸法度などを定めて幕政の基礎を築いた。