大垣城(麋城、巨鹿城) 


 城郭の構造:連郭輪郭複合式平城
 築城の時期:(伝)明応9年(1500年)、竹腰尚綱
 廃城の時期:明治4年(1871年)
 主な城主:竹腰氏、氏家氏、伊藤氏、岡部氏、松平氏、戸田氏
 所在地:岐阜県大垣市郭町2丁目52
 訪問日:2007年5月16日

 

大垣城は関ヶ原の合戦で西軍の拠点となった城です。明治の廃城令で破却を免れた天守も1945年(昭和20年)大垣空襲により焼失しました。現在の天守は1959年(昭和34年)に鉄筋コンクリート造りで復元されたものです。

木立の中にそびえ立つ天守閣

天守閣の内部は資料館になています。展示物にも古いものはありませんが、関ヶ原の合戦を中心に構成されたビデオ、CGなどでの紹介はなかなか面白いものでした。

大手門
そびえ立つコンクリート造りの天守閣

 関ヶ原の戦

慶長5年(1600年)関ヶ原で石田三成らの西軍と徳川家康らの東軍とが天下を争った戦い。小早川秀秋の寝返りにより東軍が大勝した。石田三成らは処刑され豊臣秀頼は60万石の大名に転落した。これにより徳川氏の覇権が確立した。

 

 石田三成(いしだみつなり)

1560~1600年、安土桃山時代の武将。豊臣秀吉に重用され、五奉行の一人として太閤検地などに活躍。秀吉の死後、遺子秀頼を擁ようして徳川家康と対立、関ヶ原の戦いに敗れ京で斬首された。

 

 徳川家康(とくがわいえやす)東照大権現(とうしょうだいごんげん)

1543~1616年、江戸幕府初代将軍。松平広忠の長男。織田信長と結んで駿河を、豊臣秀吉と和して関東を支配。豊臣秀吉の死後石田三成関ヶ原の戦いに破り、慶長8年(1603年)征夷大将軍となって江戸に幕府を開いた。武家諸法度などを定めて幕政の基礎を築いた。

 

 豊臣秀頼(とよとみひでより)

1593~1615年、安土桃山・江戸前期の大名。大坂城主。豊臣秀吉の次男。徳川家康の将軍就任に伴い一大名となる。方広寺鐘銘事件を端に徳川家との間に大坂冬の陣を起こす。一旦講和するが大坂夏の陣に敗れた。

 

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