永平寺は曹洞宗の開祖、道元禅師により開山された古刹で、總持寺と並ぶ曹洞宗の大本山です。
山門前の駐車場に車を停め参道を登っていきます。正面に見える門は勅使門。大きな山門も自由にくぐれるのは永平寺の管主だけとか。
訪れた時間が12時前と言うことで、大きな仏殿では20人ほどの僧侶が読経を上げていました。腹に響く木魚の音と、低い読経の声はここが修行の場と言うことを感じさせてくれます。
ここに修行する修行僧は、永平寺に入門するときと修行を全うし永平寺を出るときにのみ通ることが出来ると言います。
参拝者は左手の吉祥閣の玄関から入山することになります。最初に通された大広間で若い坊さんが境内での注意や建物の説明をしてくれました。
最初は昭和の画家100人ほどが書いたという天井絵を配した傘松閣の大広間。ちょうど団体客に説明していたお坊さんの話しを聞くことが出来ました。天井絵の中には鳥や花以外を描いたものが5枚あるとか。獅子やリスなどの絵と言いますがなかなか見付けるのは難しそうです。
永平寺の建物は禅宗特有の7堂伽藍と言われる建物を長い廊下で結ぶ形式。最初は大きな山門に立ち寄ります。目の前の梵鐘はゆく年くる年でも紹介されるところです。
仏前に御霊供膳(おりくぜん)を上げる時間のようで、料理などを司る大庫院では長年伝わった作法に乗っ取り、若い僧侶がおりく膳の用意をしていました。
仏殿の左手奥は道元禅師を祀る承陽殿です。ここには歴代の管主の霊も眠っている永平寺の聖地と言います。
禅宗の一派。中国の禅宗第六祖慧能の法系である洞山良价 (807~869年) を祖とする。中国禅宗五家七宗の一つ。鎌倉時代に道元が入宋して伝えた。福井県の永平寺と神奈川県の総持寺とを大本山とする。
鎌倉時代の仏僧。曹洞宗の開祖。内大臣久我通親の子。幼くして比叡山に上ったがその教学に疑問をもち、栄西について禅を学び1223年明全(みょうぜん)とともに入宋した。天童山で如浄の印可を受け1228年帰国した。
仏教の開祖。世界4聖の一人。ネパール南部の釈迦族の王子として紀元前6から前5世紀に生まれる。苦行ののち悟りをひらきインド各地で布教して80歳で没したとされる。
はじめは実在の釈迦をさしたが入滅後、超人化・神格化されて信仰・崇拝の対象となる。日本には6世紀、百済からその教えがつたわった。
大乗仏教の仏。西方の極楽浄土の教主で生あるものすべてをすくう仏様。念仏により浄土に往生できるという阿弥陀信仰が鎌倉時代にさかんになり、浄土宗、浄土真宗、時宗などの浄土教宗派が成立した。
阿弥陀如来像は質素な形で如来の通相と呼ばれる姿をしています。小指を除く三指と親指で輪にした九品来迎印(くぼんらいごういん)を結んでいるのが特徴です。
禅宗の一派。中国の禅宗第六祖慧能の法系である洞山良价 (807~869年) を祖とする。中国禅宗五家七宗の一つ。鎌倉時代に道元が入宋して伝えた。福井県の永平寺と神奈川県の総持寺とを大本山とする。
鎌倉時代の仏僧。曹洞宗の開祖。内大臣久我通親の子。幼くして比叡山に上ったがその教学に疑問をもち、栄西について禅を学び1223年明全(みょうぜん)とともに入宋した。天童山で如浄の印可を受け1228年帰国した。
鎌倉時代の仏僧。曹洞宗の開祖。内大臣久我通親の子。幼くして比叡山に上ったがその教学に疑問をもち、栄西について禅を学び1223年明全(みょうぜん)とともに入宋した。天童山で如浄の印可を受け1228年帰国した。
禅宗の一派。中国の禅宗第六祖慧能の法系である洞山良价 (807~869年) を祖とする。中国禅宗五家七宗の一つ。鎌倉時代に道元が入宋して伝えた。福井県の永平寺と神奈川県の総持寺とを大本山とする。
仏教の開祖。世界4聖の一人。ネパール南部の釈迦族の王子として紀元前6から前5世紀に生まれる。苦行ののち悟りをひらきインド各地で布教して80歳で没したとされる。
はじめは実在の釈迦をさしたが入滅後、超人化・神格化されて信仰・崇拝の対象となる。日本には6世紀、百済からその教えがつたわった。
法然上人の弟子の親鸞上人を開祖とする浄土教の一派。浄土三部経を所依の経典とするが、特に無量寿経により阿弥陀仏の本願の信心を重視し、称名念仏は仏恩報謝の行であるとするのを宗旨とする。門徒宗、一向宗とも呼ばれます。
鎌倉時代の仏僧。曹洞宗の開祖。内大臣久我通親の子。幼くして比叡山に上ったがその教学に疑問をもち、栄西について禅を学び1223年明全(みょうぜん)とともに入宋した。天童山で如浄の印可を受け1228年帰国した。
禅宗の一派。中国の禅宗第六祖慧能の法系である洞山良价 (807~869年) を祖とする。中国禅宗五家七宗の一つ。鎌倉時代に道元が入宋して伝えた。福井県の永平寺と神奈川県の総持寺とを大本山とする。