高野山金剛峯寺 


 寺社の種類:高野山真言宗の総本山
 創建の時期:弘仁10年(819年)、開基:空海
 本尊:薬師如来阿しゅく如来とも)
 所在地:和歌山県伊都郡高野町高野山132
 訪問日:2007年5月10日

 

高野山は弘法大師空海が修行の場として開いた高野山真言宗の霊場で、比叡山と並ぶ日本仏教における聖地です。ここには高野山真言宗総本山の金剛峯寺をはじめとし100を越える寺院が立ち並び一大宗教都市を形成しています。また戦国大名を始めとし多くの著名人の墓地があります。

高野山を訪れたのはあいにくの雨、冷たい雨がそぼ降る参道を奥の院へ向かいました。

奥ノ院からは金剛峯寺へ。豊臣秀吉により建てられたと言う大きな本坊を拝観します。

奥の院への参道
結城秀康の石廟
肥前島原松平家の墓所
豊臣家の墓所

苔むした杉の暗い参道には前田家や浅野家、徳川家など歴代の大名の墓などが建っています。

後ろを歩いていた団体に付いていたガイドさんの話では、墓の中には豊臣秀吉の墓のほか織田信長の墓もあるとか。比叡山を焼き打ちしたのち高野山と対立していた信長の墓がここにあるとは少し不思議な話です。

織田信長、筒井順慶の墓
浅野内匠頭墓所と赤穂四十七士菩提碑
加賀前田家墓所
玉川沿いの水掛け地蔵

暗い杉並木の中を進んで行くと水かけ観音像が並んでいました。先ほどのガイドさんの話では水は足元にかけるとか、知らない人は頭に掛けようとして苦労していると面白おかしく話をしていました。

奥の院の入口
奥ノ院の弘法大師の廟
高野山の御供所
親鸞聖人の墓所

小さな橋を渡ると奥ノ院、ここからは写真の撮影は禁止とか。暗い奥ノ院に参拝し裏手に回ると弘法大師が今も眠るという古いお堂です。さすがここは静寂な気配が漂い空気さえも違っているようです。

奥ノ院の隣にはたくさんの燈篭が奉納されているお堂があります。金色の灯篭を奉納するには数十万円とか。歴代の大名も高野山にお墓を持つことを望んでいたようですが、現代でも有名な会社のお墓も多く立ち並んでいます。高野山は特別な信仰に支えられたところのようです。

参道わきの納経所で納経をしました。高野山は西国三十三観音霊場には含まれていませんが、お礼詣りとして納経するところとか。西国三十三観音霊場のほか四国八十八カ所の巡礼も、最後に高野山で納経すると言います。

金剛峯寺の山門
真言宗の総本山金剛峯寺
真言宗の総本山金剛峯寺
白砂が敷かれた播龍庭

お茶の接待があるという赤い毛氈が敷かれた大広間に入ると、団体客のために若いお坊さんが高野山について説明していました。高野山の歴史や修行僧、問答などについての話でしたが、お坊さんの世界もなかなか大変のようです。

広いには本坊には、古い歴史を伝える襖絵や豊臣秀次自刀の間、雌雄の竜を表現していると言う播龍庭(ばんりゅうてい)などがありました。

廊下の脇にも小さな石庭
釈迦来迎図
金剛峯寺のシャクナゲ
金剛峯寺のシャクナゲ

室生寺では満開を過ぎていたようですが高野山では今がシャクナゲの見ごろ。あまり花の数は多くないようですが池のほとりにはピンクの花が咲き乱れていました。

 高野山真言宗(こうやさんしんごんしゅう)

真言宗の宗派である。総本山は金剛峯寺。高野宗・高野派とも呼ばれる。全国に約3700の末寺がある。

 空海(くうかい)弘法大師(こうぼうだいし)

平安時代の僧。真言宗の開祖。最澄と並ぶ平安仏教の確立者。15歳で母方の伯父阿刀大足(あとのおおたる)について京都へ遊学。延暦23年(804年)入唐し翌々年帰朝。高野山に金剛峰寺を建立し東寺(教王護国寺)を真言道場とした。

 

 薬師如来・薬師瑠璃光如来(やくしにょらい)

東方浄瑠璃世界の教主。人々の病患を救うとともに悟りに導くことを誓った仏で医薬の仏として信仰される。右手に施無畏印(せむいいん)を結び、左手に薬壺(やっこ)を持つ。脇侍に日光菩薩と月光菩薩、眷属として十二神将が配される。

 

 阿しゅく如来(あしゅくにょらい)

仏教の如来の一尊。西方極楽浄土の阿弥如来と並んで、東方に住む大乗の仏様。

 

 空海(くうかい)弘法大師(こうぼうだいし)

平安時代の僧。真言宗の開祖。最澄と並ぶ平安仏教の確立者。15歳で母方の伯父阿刀大足(あとのおおたる)について京都へ遊学。延暦23年(804年)入唐し翌々年帰朝。高野山に金剛峰寺を建立し東寺(教王護国寺)を真言道場とした。

 

 豊臣秀吉(とよとみひでよし)

1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。

天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。

 

 織田信長(おだのぶなが)

1534~1582年、戦国・安土桃山時代の武将。織田信秀の子。桶狭間に今川義元を討って尾張一国を統一。京都に上って比叡山を焼き、浅井氏・朝倉氏を破り、将軍足利義昭(あしかがよしあき)を追放、武田勝頼を三河の長篠に破った。中国出陣の途中、京都本能寺で明智光秀の謀反にあった。

 

 西国三十三観音霊場・西国三十三ヶ所

近畿地方を中心に散在する33ケ所の観音霊場。花山法皇の巡礼を創始とすると伝えられる。室町時代から民間人の参拝が増え、江戸時代に盛んとなった。

 

 四国八十八ヶ所四国巡礼(しこくじゅんれい)

四国にある弘法大師ゆかりの88か所の寺院の総称で、四国霊場の最も代表的な札所である。

1番 霊山寺、2番 極楽寺、3番 金泉寺、4番 大日寺、5番 地蔵寺、6番 安楽寺、7番 十楽寺、8番 熊谷寺、9番 法輪寺、10番 切幡寺、11番 藤井寺、12番 焼山寺、13番 大日寺、14番 常楽寺、15番 国分寺、16番 観音寺、17番 井戸寺、18番 恩山寺、19番 立江寺、20番 鶴林寺、21番 太龍寺、22番 平等寺、23番 薬王寺、24番 最御崎寺、25番 津照寺、26番 金剛頂寺、27番 神峯寺、28番 大日寺、29番 国分寺、30番 善楽寺、31番 竹林寺、32番 禅師峰寺、33番 雪蹊寺、34番 種間寺、35番 清滝寺、36番 青龍寺、37番 岩本寺、38番 金剛福寺、39番 延光寺、40番 観自在寺、41番 龍光寺、42番 仏木寺、43番 明石寺、44番 大寶寺、45番 岩屋寺、46番 浄瑠璃寺、47番 八坂寺、48番 西林寺、49番 浄土寺、50番 繁多寺、51番 石手寺、52番 太山寺、53番 円明寺、54番 延命寺、55番 南光坊、56番 泰山寺、57番 栄福寺、58番 仙遊寺、59番 国分寺、60番 横峰寺、61番 香園寺、62番 宝寿寺、63番 吉祥寺、64番 前神寺、65番 三角寺、66番 雲辺寺、67番 大興寺、68番 神恵院、69番 観音寺、70番 本山寺、71番 弥谷寺、72番 曼荼羅寺、73番 出釈迦寺、74番 甲山寺、75番 善通寺、76番 金倉寺、77番 道隆寺、78番 郷照寺、79番 天皇寺、80番 国分寺、81番 白峯寺、82番 根香寺、83番 一宮寺、84番 屋島寺、85番 八栗寺、86番 志度寺、87番 長尾寺、88番 大窪寺

 

 豊臣秀次(とよとみひでつぐ)

1568~1595年、安土桃山時代の武将。母は秀吉の姉日秀。賤ヶ岳の戦い、四国・小田原攻略で戦功をたて秀吉の養子となった。秀頼誕生によって高野山に追放、自害を命ぜられた。

 

 真言宗(しんごんしゅう)

弘法大師空海(774~835)が唐で学んだ密教を教義に平安初期に開いた。大日如来を教主とし、身口意(しんくい)三密の加持力で即身成仏(じょうぶつ)させるのを本旨とする。

 

 最澄(さいちょう)・伝教大師

平安初期の僧。767~822年。天台宗の開祖。比叡山に入り根本中堂を建立。延暦23年(804年)空海とともに入唐し翌年帰国した。

 

 阿弥陀如来(あみだにょらい)

大乗仏教の仏。西方の極楽浄土の教主で生あるものすべてをすくう仏様。念仏により浄土に往生できるという阿弥陀信仰が鎌倉時代にさかんになり、浄土宗、浄土真宗、時宗などの浄土教宗派が成立した。

阿弥陀如来像は質素な形で如来の通相と呼ばれる姿をしています。小指を除く三指と親指で輪にした九品来迎印(くぼんらいごういん)を結んでいるのが特徴です。

 

 真言宗(しんごんしゅう)

弘法大師空海(774~835)が唐で学んだ密教を教義に平安初期に開いた。大日如来を教主とし、身口意(しんくい)三密の加持力で即身成仏(じょうぶつ)させるのを本旨とする。

 

 最澄(さいちょう)・伝教大師

平安初期の僧。767~822年。天台宗の開祖。比叡山に入り根本中堂を建立。延暦23年(804年)空海とともに入唐し翌年帰国した。

 

 織田信長(おだのぶなが)

1534~1582年、戦国・安土桃山時代の武将。織田信秀の子。桶狭間に今川義元を討って尾張一国を統一。京都に上って比叡山を焼き、浅井氏・朝倉氏を破り、将軍足利義昭(あしかがよしあき)を追放、武田勝頼を三河の長篠に破った。中国出陣の途中、京都本能寺で明智光秀の謀反にあった。

 

 豊臣秀吉(とよとみひでよし)

1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。

天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。

 

 明智光秀(あけちみつひで)

1528~1582年、戦国・安土桃山時代の武将。美濃の生まれ。織田信長に重用されたが、1582年6月2日、京都本能寺に信長を襲い自害させた。山崎の戦いで豊臣秀吉に敗れ逃走中土民に殺された。

 

 柴田勝家(しばたかついえ)

1522~1583年、安土桃山時代の武将。織田信長の臣。越前北ノ庄に拠って北陸を支配。本能寺の変後、豊臣秀吉と対立、賤ヶ岳の戦いに敗れ北ノ庄で自害した。

 

 武田勝頼(たけだかつより)

1546~1582年、戦国時代の武将。武田信玄の子。信玄没後家督を継ぎ美濃・遠江・三河に進出したが、長篠の戦いに大敗。以後衰運をたどり織田・徳川軍に追い詰められ天目山麓で自刃、武田氏は滅亡した。

 

 明智光秀(あけちみつひで)

1528~1582年、戦国・安土桃山時代の武将。美濃の生まれ。織田信長に重用されたが、1582年6月2日、京都本能寺に信長を襲い自害させた。山崎の戦いで豊臣秀吉に敗れ逃走中土民に殺された。

 

 空海(くうかい)弘法大師(こうぼうだいし)

平安時代の僧。真言宗の開祖。最澄と並ぶ平安仏教の確立者。15歳で母方の伯父阿刀大足(あとのおおたる)について京都へ遊学。延暦23年(804年)入唐し翌々年帰朝。高野山に金剛峰寺を建立し東寺(教王護国寺)を真言道場とした。

 

 賤ヶ岳の戦(しずがたけのたたかい)

1583年4月、賤ヶ岳付近で羽柴秀吉柴田勝家を破った戦い。本能寺の変後、織田信長の次男信雄を奉ずる秀吉と、三男信孝を奉ずる勝家との対立が原因。勝家・信孝は自殺し秀吉の全国制覇への基礎が築かれた。

 

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