萩城下町 


 観光地の種類:史跡
 所在地:山口県萩市
 訪問日:2006年11月6日

 

萩城下町は明治維新の原動力となった萩藩の政治的、経済的、文化的、軍事的な拠点です。

黒い板塀が続く古い町並みを歩くこと20分。たどり着いた町並みは当時の家と今も人の生活している民家が入り組んだところです。新しく建てられた家も壁には黒い板塀を貼り付けたり土塀をまわしたりするなど、古い町並みを保存するにはかなりの努力が必要なようです。

白い土塀と瓦の古い家並み
桂小五郎の旧家
座敷には写真と小さな像が
裏庭には風呂のかまど

小さな小路を入っていくと桂小五郎の家です。かわら屋根の民家と言った雰囲気の家には、桂小五郎の写真や書などが展示されていました。

長州征伐や倒幕時代の藩主、毛利敬親と一緒に写った写真もありました。歴史の中では藩政を家臣に任せ「そうせい侯」と酷評されていますが、毛利氏の念願であった倒幕を成し遂げた藩主であったことも事実です。

田中義一誕生の地
高杉新作の生家
「西へ行く人を慕ふて・・・・」の石碑
高杉新作の生家

桂小五郎の家の近くには高杉晋作の生家があります。萩藩の勤皇倒幕運動の中心となった高杉晋作は小説などでもお馴染みの人物。奇兵隊を組織して2度の長州征伐を勝利に導き、わずか27歳にして幕末の歴史を駆け抜けた風雲児です。小さな庭には「西へ行く 人をしたひて 東行く 心の底そ神や知るらん」の歌碑がありました。

この狭い城下町には蘭学者青木周弼の家や、総理大臣を務めた田中義一誕生の地、萩藩の御用商人菊屋などがありました。歴史上に名を連ねる偉人がこの狭い城下に生まれ育った萩は、松下村塾や明倫館などを代表する人造りの努力が、歴史を作ったことを教えているようです。

白い土塀が続いています
萩屋敷長屋には萩城の模型

帰り道には萩博物館や毛利歴代の藩主の菩提寺という天樹院の傍をとおりましたが、立ち寄っていくには時間が足りないようです。

 桂小五郎(かつらこごろう)木戸孝允(きどたかよし)

1833~1877年、幕末・明治政治家。長州の人。のち木戸孝允。維新の三傑の一人。吉田松陰に学び討幕の志士として活躍した。明治維新後、五箇条の御誓文の起草、版籍奉還、廃藩置県などに尽力。征韓論・台湾征討に反対した。逃げの小五郎のあだ名もある。

 

 毛利敬親(もうりたかちか)

1819~1871年、幕末の長州藩主。村田清風に藩政改革を行わせ、幕末動乱期には藩論に従って攘夷・討幕に突入。維新後、版籍奉還を建白した。

 

 高杉晋作(たかすぎしんさく)

1839~1867年、幕末の志士。長州藩士。吉田松陰門下。下関砲撃に備えて奇兵隊を結成、また1865年以降、藩の主導権を握って藩論を倒幕に転換、第二次長州征伐の幕府軍を圧した。

 

 吉田松陰(よしだしょういん)

1830~1859、幕末の志士で思想家。長州藩の下級武士杉常道の子。10歳にして藩校明倫館で講義を行った。山鹿流軍学師範を務め、江戸に出て佐久間象山に師事。安政4年松下村塾をひらき高杉晋作、伊藤博文らに教えるが安政の大獄で刑死した。

 

 吉田松陰(よしだしょういん)

1830~1859、幕末の志士で思想家。長州藩の下級武士杉常道の子。10歳にして藩校明倫館で講義を行った。山鹿流軍学師範を務め、江戸に出て佐久間象山に師事。安政4年松下村塾をひらき高杉晋作、伊藤博文らに教えるが安政の大獄で刑死した。

 

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