播磨浦公園(一ノ谷古戦場) 


 観光地の種類:史跡
 所在地:兵庫県神戸市須磨区一ノ谷町
 訪問日:2006年11月2日

 

六甲山の山裾が淡路島を望む須磨の浦に迫る一帯が須磨浦公園です。

六波羅から西国に逃れた平家が勢力を盛り返しここで源氏の軍勢と合戦をしたのは寿永3年(1184)2月7日のこと、鵯越の逆落としの奇襲で平家の大群を打ち破った源義経が歴史の舞台に華やかなデビューを果たした歴史の場所でもあります。しかし鵯越の場所については諸説があり、何処か特定されていません。一ノ谷の裏手にある鉄拐山の斜面と言う説や、往時から街道が通っていた鵯越展望公園付近などという説もあるようです。

須磨裏公園の駐車場に車を停め赤松の林の中に続く遊歩道を散策しました。しばらく歩くと二ノ谷、さらにしばらく歩いたところが一ノ谷です。

播磨浦公園は一ノ谷の合戦があったところです
一ノ谷古戦場を紹介する案内板

平家物語などによると一ノ谷は平家の赤旗で埋め尽くされたとか。今は松林の中に戦の濱と書かれた石柱が建っているだけです。現在は住宅地となっている一ノ谷には安徳天皇の内裏跡や平敦盛と熊谷直実の歴史を伝える須磨寺などのあるようですがこれらを見てくる時間はないようです。

公園の中には緑の塔というモニュメントがありました。左手の地球を模した大きなタマは神戸淡路震災で落ちてしまったとか。直径2mほどもある大きな石が台座から落ちる地震の力には驚かされるものがあります。

公園には緑の塔があります
平敦盛の塚

帰り道には駐車場脇の敦盛塚に立ち寄りました。大きな自然石を積み重ねた塚が駐車場脇に立っています。一ノ谷の戦いで討たれた平敦盛の塚と言うのが通説ですが、説明板によると鎌倉幕府の執権北条貞時が平家一門の冥福を祈って、弘安年間に造立したとも、平家の人々の魂を集めて供養した「あつめ」塚がいつしか「あつもり」塚に転訛したものとも言われているようです。敦盛塚の脇には敦盛の若葉ノ笛にちなんだ歌碑が建っていました。

 源義経(みなもとよしつね)

1159~1189年、平安末期・鎌倉初期の武将。源義朝の九男。幼名は牛若丸。平治の乱で捕らえられ鞍馬寺に入り、さらに奥州の藤原秀衡のもとに身を寄せた。兄頼朝の挙兵に応じて義仲を討ち、次いで平氏を一ノ谷・屋島・壇ノ浦に破って全滅させた。のちに頼朝と不和になり奥州に逃れたが秀衡の死後その子泰衡に襲われ、衣川の館で自殺。悲劇の英雄として伝説化される。

 

 安徳天皇(あんとくてんのう)

第81代天皇(在位:1180年2月21日~1185年3月24日)高倉天皇の皇子。母は平清盛の娘建礼門院徳子。2歳で即位、平宗盛に擁せられて西国に落ち、壇ノ浦で平氏一門とともに入水した。陵墓は山口県下関市阿弥陀寺町の阿弥陀寺陵。

 

 平敦盛(たいらのあつもり)

1169~1184年、平安末期の武将。平経盛の子。一ノ谷の戦いで熊谷直実に討たれた。笛の名手として知られる。

 

 平敦盛(たいらのあつもり)

1169~1184年、平安末期の武将。平経盛の子。一ノ谷の戦いで熊谷直実に討たれた。笛の名手として知られる。

 

 源義朝(みなもとよしとも)

1123~1160年、平安末期の武将。源為義の長男。保元の乱で後白河天皇方に加わり功によって左馬頭となった。のち平清盛と対立、平治の乱を起こして敗死した。

 

 平治の乱(へいじのらん)

保元の乱(ほげんのらん)の後、平治1年(1159年)12月、京都に勃発した内乱。後白河上皇の近臣間の暗闘が源平武士団の対立に結びつき、藤原信頼・源義朝による上皇幽閉、藤原通憲(信西)殺害という事件に発展した。しかし平清盛の計略によって上皇は脱出し、激しい合戦のすえ源氏方は敗北した。これ以後、平氏の政権が成立した。

 

 藤原秀衡(ふじわらひでひら)

?~1187年、平安後期の陸奥の豪族。藤原基衡の子。鎮守府将軍。平家滅亡後は源義経をかくまって源頼朝に対抗。奥州藤原氏3代の栄華の頂点をつくった。

 

 源頼朝(みなもとよりとも)

1147~1199年 鎌倉幕府初代将軍。義朝の三男。平治の乱のち伊豆蛭ヶ小島に配流される。1180年以仁王もちひとおうの平氏追討の令旨に応じ挙兵。石橋山の戦いに敗れ安房に逃げたが東国武士の来援を得て関東を制し鎌倉にはいって根拠地とした。平維盛の追討軍を富士川に破り弟の範頼・義経を西上させ、85年壇ノ浦で平氏を討滅し全国を平定。全国に守護・地頭を設置、武家政治の基礎を確立。

 

 源頼朝(みなもとよりとも)

1147~1199年 鎌倉幕府初代将軍。義朝の三男。平治の乱のち伊豆蛭ヶ小島に配流される。1180年以仁王もちひとおうの平氏追討の令旨に応じ挙兵。石橋山の戦いに敗れ安房に逃げたが東国武士の来援を得て関東を制し鎌倉にはいって根拠地とした。平維盛の追討軍を富士川に破り弟の範頼・義経を西上させ、85年壇ノ浦で平氏を討滅し全国を平定。全国に守護・地頭を設置、武家政治の基礎を確立。

 

 藤原秀衡(ふじわらひでひら)

?~1187年、平安後期の陸奥の豪族。藤原基衡の子。鎮守府将軍。平家滅亡後は源義経をかくまって源頼朝に対抗。奥州藤原氏3代の栄華の頂点をつくった。

 

 高倉天皇(たかくらてんのう)

第80代天皇(在位:1168年2月19日~1180年2月21日)後白河天皇第7皇子。在位中は平清盛の隆盛時にあたりその娘徳子を中宮とした。陵墓は京都府京都市東山区清閑寺歌ノ中山町の後清閑寺陵。

 

 平清盛(たいらのきよもり)

1118~1181年、平安末期の武将。平忠盛の長男。白河法皇の落胤とも伝えられる。父の地位と遺産を受け継いで政界に進出。保元の乱・平治の乱により対立勢力を一掃、従一位太政大臣となる。娘徳子を高倉天皇に入内させ官職を一門で独占、知行三十余国に及ぶ平氏政権を樹立した。

 

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