明日香村の甘橿丘は山麓に蘇我蝦夷と蘇我入鹿の親子が邸宅をかまえたと見られるところです。国営飛鳥歴史公園となっている丘の上からは大和三山や藤原京を眺めることができます。
県営の駐車場に車を停め公園の中を登って行きます。途中、分岐点を左に折れると道は墓地の中で行き止まり。もう少し親切な指導標があれば助かるところです。
なだらかな遊歩道のような道をたどると川原展望台にたどり着きました。畝傍山、耳成山、天香久山が橿原の町並みの中に小さな頭を持ち上げています。標高はわずかに200mほど、思ったほどの高くないようですが、万葉の人々はこの山を日夜眺めていたのでしょう。
飛鳥時代、持統天皇・文武天皇・元明天皇の都(694~710)。奈良県橿原市高殿を中心とする大和三山に囲まれた地域にある。中国式の条坊制を採用した日本最初の都城とされる。大極殿・朝堂院・官衙などの遺跡が発掘されている。
574~622年、古代推古朝の摂政、用明天皇の皇子。推古天皇の皇太子となり摂政として内政・外交・仏教の興隆に力を尽した。
冠位十二階、十七条憲法を制定。豪族勢力を押えて中央集権的官僚国家建設の準備を整えた。外交面では任那回復のための新羅征討、小野妹子を隋に派遣して国交を開いた。
仏教を深く信仰し法隆寺、四天王寺などを建立し、仏典の注釈三経義疏を著わしたと伝えられる。
大化元年(645年)中大兄皇子(のちの天智天皇)・中臣鎌足らが蘇我氏を打倒して始めた古代政治史上の一大改革。中大兄皇子は孝徳天皇を即位させ自らは皇太子として実権を握った。公地公民制、地方行政組織の確立、班田収授法、租庸調の統一的税制の実施を中心とした改新の詔みことのりを発布した。氏姓制度による皇族・豪族の支配を否定して中央集権的支配の実現へと向かった。
第38代天皇(在位:668年1月3日~671年12月3日)舒明天皇第二皇子。645年(大化1)中臣鎌足と図って蘇我そが氏を滅ぼし、皇太子として改新政治を主導。即位後は都を大津に移し、近江令を制定した。また庚午年籍(こうごねんじやく)を作り、律令体制の基礎を築いた。陵墓は京都府京都市山科区御陵上御廟野町の山科陵。
574~622年、古代推古朝の摂政、用明天皇の皇子。推古天皇の皇太子となり摂政として内政・外交・仏教の興隆に力を尽した。
冠位十二階、十七条憲法を制定。豪族勢力を押えて中央集権的官僚国家建設の準備を整えた。外交面では任那回復のための新羅征討、小野妹子を隋に派遣して国交を開いた。
仏教を深く信仰し法隆寺、四天王寺などを建立し、仏典の注釈三経義疏を著わしたと伝えられる。
第38代天皇(在位:668年1月3日~671年12月3日)舒明天皇第二皇子。645年(大化1)中臣鎌足と図って蘇我そが氏を滅ぼし、皇太子として改新政治を主導。即位後は都を大津に移し、近江令を制定した。また庚午年籍(こうごねんじやく)を作り、律令体制の基礎を築いた。陵墓は京都府京都市山科区御陵上御廟野町の山科陵。
第41代天皇(在位:686年9月9日~697年8月1日)天武天皇の皇后。女帝。天武天皇の死後政務に携わり、皇太子草壁皇子の病死で即位。697年、文武天皇に譲位後は太上天皇として政務をみる。都は藤原宮。陵墓は奈良県高市郡明日香村野口の檜隈大内陵。
第42代天皇(在位:697年8月1日~707年6月15日)天武天皇・持統天皇の孫。草壁皇子の第一皇子。大宝律令を制定。万葉集、懐風藻に入集した。陵墓は奈良県高市郡明日香村栗原の檜隈安古岡上陵。