高田城(鮫ヶ城、関城、高陽城) 


 城郭の構造:輪郭式平城
 築城の時期:慶長19年(1614年)、松平忠輝
 廃城の時期:明治3年(1871年)
 主な城主:松平氏、稲葉氏、榊原氏
 所在地:新潟県上越市本城町
 訪問日:2005年5月31日

 

高田城は慶長19年(1614年)3月、家康の六男である松平忠輝の居城として伊達政宗上杉景勝、小笠原秀政などをはじめとする13大名が参加し普請した天下普請の城。大阪冬の陣が切迫していることから僅か4ヶ月で竣工した城です。

このためか石垣を用いず、また城のシンボルである天守閣も造らず、代わりに三重櫓が建てられたと言います。

高田城の天守閣
復元された天守閣
天守閣から見下ろす本丸

松平忠輝の改易後は徳川譜代の大名が頻繁に城主交代を繰り返したました。他の城と同じように明治時代には廃城。その後は陸軍第13師団の基地となったためか城地は大きく改変され、往時の面影は大きな堀と三重櫓のみと言います。

この公園は3000本を越える桜が咲き乱れる桜の名所とか。広い堀は折からの桜の新緑を映し緑色に染まっていました。平成に再建されたと言う真新しい三重櫓の中に入ると、高田城の歴史や高田城の城主であった榊原氏にまつわる資料などが紹介してありました。

 松平忠輝(まつだいらただてる)

1592~1683年、江戸前期の大名。徳川家康の六男。長沢松平家を継ぎ1598年(慶長3)武蔵国深谷1万石を領する。1610年越後国福島城、1614年高田城61万石を与えられ川中島領と合わせ75万石の太守となった。しかし大坂の陣の不功などにより1616年(元和2)改易配流された。

 

 松平忠輝(まつだいらただてる)

1592~1683年、江戸前期の大名。徳川家康の六男。長沢松平家を継ぎ1598年(慶長3)武蔵国深谷1万石を領する。1610年越後国福島城、1614年高田城61万石を与えられ川中島領と合わせ75万石の太守となった。しかし大坂の陣の不功などにより1616年(元和2)改易配流された。

 

 伊達政宗(だてまさむね)

1567~1636年、安土桃山・江戸初期の武将。仙台藩祖。隻眼・果断の故をもって独眼竜と称される。出羽米沢を根拠に勢力を拡大したが、豊臣秀吉に帰服、文禄の役に出兵した。関ヶ原の戦いでは徳川方。戦後、仙台藩62万石を領した。家臣支倉常長をローマに派遣した。

 

 上杉景勝(うえすぎかげかつ)

1555~1623年、安土桃山・江戸初期の武将。上杉謙信の養嗣子。豊臣秀吉の五大老に列し会津120万石を領した。関ヶ原の戦石田三成と結んで敗れ米沢30万石に減封された。

 

 大坂冬の陣

慶長19年(1614年)冬、方広寺の鐘銘事件を口実に徳川家康が豊臣氏を大坂城に攻めた戦い。秀頼の軍の奮戦で城は落ちず和議を結んだ。

 

 豊臣秀吉(とよとみひでよし)

1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀・柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。

天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。

 

 文禄の役(ぶんろくのえき)

文禄元年(1592年)豊臣秀吉が明の征服を目的に朝鮮に出兵した侵略戦争。約16万の軍を釜山に上陸させ明の国境まで進出したが、明の援軍、朝鮮水軍の攻撃や民衆蜂起などによって劣勢となり停戦。

 

 関ヶ原の戦

慶長5年(1600年)関ヶ原で石田三成らの西軍と徳川家康らの東軍とが天下を争った戦い。小早川秀秋の寝返りにより東軍が大勝した。石田三成らは処刑され豊臣秀頼は60万石の大名に転落した。これにより徳川氏の覇権が確立した。

 

 上杉謙信(うえすぎけんしん)長尾景虎(ながおかげとら)

1530~1578年、戦国時代の武将。越後守護代長尾為景の子。景虎、政虎、輝虎と改名する。越後春日山城にあって北陸地方一帯を領有、小田原北条氏、甲斐武田氏と対抗した。特に武田信玄との川中島の戦いは有名。

 

 豊臣秀吉(とよとみひでよし)

1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀・柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。

天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。

 

 関ヶ原の戦

慶長5年(1600年)関ヶ原で石田三成らの西軍と徳川家康らの東軍とが天下を争った戦い。小早川秀秋の寝返りにより東軍が大勝した。石田三成らは処刑され豊臣秀頼は60万石の大名に転落した。これにより徳川氏の覇権が確立した。

 

 石田三成(いしだみつなり)

1560~1600年、安土桃山時代の武将。豊臣秀吉に重用され、五奉行の一人として太閤検地などに活躍。秀吉の死後、遺子秀頼を擁ようして徳川家康と対立、関ヶ原の戦いに敗れ京で斬首された。

 

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