高田城は慶長19年(1614年)3月、家康の六男である松平忠輝の居城として伊達政宗、上杉景勝、小笠原秀政などをはじめとする13大名が参加し普請した天下普請の城。大阪冬の陣が切迫していることから僅か4ヶ月で竣工した城です。
このためか石垣を用いず、また城のシンボルである天守閣も造らず、代わりに三重櫓が建てられたと言います。
松平忠輝の改易後は徳川譜代の大名が頻繁に城主交代を繰り返したました。他の城と同じように明治時代には廃城。その後は陸軍第13師団の基地となったためか城地は大きく改変され、往時の面影は大きな堀と三重櫓のみと言います。
この公園は3000本を越える桜が咲き乱れる桜の名所とか。広い堀は折からの桜の新緑を映し緑色に染まっていました。平成に再建されたと言う真新しい三重櫓の中に入ると、高田城の歴史や高田城の城主であった榊原氏にまつわる資料などが紹介してありました。
1592~1683年、江戸前期の大名。徳川家康の六男。長沢松平家を継ぎ1598年(慶長3)武蔵国深谷1万石を領する。1610年越後国福島城、1614年高田城61万石を与えられ川中島領と合わせ75万石の太守となった。しかし大坂の陣の不功などにより1616年(元和2)改易配流された。
1592~1683年、江戸前期の大名。徳川家康の六男。長沢松平家を継ぎ1598年(慶長3)武蔵国深谷1万石を領する。1610年越後国福島城、1614年高田城61万石を与えられ川中島領と合わせ75万石の太守となった。しかし大坂の陣の不功などにより1616年(元和2)改易配流された。
1567~1636年、安土桃山・江戸初期の武将。仙台藩祖。隻眼・果断の故をもって独眼竜と称される。出羽米沢を根拠に勢力を拡大したが、豊臣秀吉に帰服、文禄の役に出兵した。関ヶ原の戦いでは徳川方。戦後、仙台藩62万石を領した。家臣支倉常長をローマに派遣した。
1555~1623年、安土桃山・江戸初期の武将。上杉謙信の養嗣子。豊臣秀吉の五大老に列し会津120万石を領した。関ヶ原の戦で石田三成と結んで敗れ米沢30万石に減封された。
1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀・柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。
天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。
文禄元年(1592年)豊臣秀吉が明の征服を目的に朝鮮に出兵した侵略戦争。約16万の軍を釜山に上陸させ明の国境まで進出したが、明の援軍、朝鮮水軍の攻撃や民衆蜂起などによって劣勢となり停戦。
慶長5年(1600年)関ヶ原で石田三成らの西軍と徳川家康らの東軍とが天下を争った戦い。小早川秀秋の寝返りにより東軍が大勝した。石田三成らは処刑され豊臣秀頼は60万石の大名に転落した。これにより徳川氏の覇権が確立した。
1530~1578年、戦国時代の武将。越後守護代長尾為景の子。景虎、政虎、輝虎と改名する。越後春日山城にあって北陸地方一帯を領有、小田原北条氏、甲斐武田氏と対抗した。特に武田信玄との川中島の戦いは有名。
1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀・柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。
天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。
慶長5年(1600年)関ヶ原で石田三成らの西軍と徳川家康らの東軍とが天下を争った戦い。小早川秀秋の寝返りにより東軍が大勝した。石田三成らは処刑され豊臣秀頼は60万石の大名に転落した。これにより徳川氏の覇権が確立した。
1560~1600年、安土桃山時代の武将。豊臣秀吉に重用され、五奉行の一人として太閤検地などに活躍。秀吉の死後、遺子秀頼を擁ようして徳川家康と対立、関ヶ原の戦いに敗れ京で斬首された。