小田原古城と街歩き 


 歩行時間:行動時間 4:30、歩行時間4:20
 歩行距離:8.7km
 累積標高差:+260m、-270m
 往路:湘南ライン・小田原駅、復路:湘南ライン・小田原駅
 訪問日:2023年3月27日

 

 コースタイム


小田原駅西口10:30~八幡山古郭東曲輪10:55~小田原古城本丸跡~八幡山古郭跡~百段坂~小田原城三味線堀11:35~大久保神社11:50~城山公園12:15/25~小峰御鐘ノ台大堀切西堀12:35~小峰御鐘ノ台大堀切東堀12:50~小峰御鐘ノ台大堀切東堀南端13:00~小田原城 三の丸外郭新堀土塁~鉄砲矢場~伝肇寺13:15~玉伝寺13:25~居神神社13:30~大九寺13:50~山角天神社14:00~清閑亭~報徳二宮神社14:20~小田原城小峰曲輪北堀・小田原城址14:25~北条氏政・氏照の墓所14:55~小田原駅東口15:00

 

 小田原駅西口~八幡山古郭東曲輪~八幡山古郭跡~百段坂~小田原城三味線堀~大久保神社~城山公園


小田原は北条氏の城下町として栄えたところです。小田原城は平安末期に地元の豪族小早川氏が築いた居館が始まりとされ、室町期には駿河の大森氏の居城となりました。その後、北条早雲がこれを奪い後北条氏5代の居城として相模の中心地となりました。

後北条氏の統治下では、越後の上杉謙信、甲斐の武田信玄の侵攻がありましたが、どちらも籠城により防ぎきり難攻不落の城と称されました。

天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原攻めの直前に改修を繰り返し総構と呼ばれ市街地を取リ囲んだ城郭は周囲約9km、日本中世史上最大の城郭となりました。

しかし小田原攻めでは山中城、鉢形城、八王子城などのなど支城が次々と陥落し数十万の豊臣軍によって小田原城は包囲されました。石垣山に築かれた一夜城は北条軍の戦意喪失を招き、結果的に無血開城に近い形で豊臣方に降伏したと言います。

北条早雲公の銅像
青橋から眺める小田原城の天守閣

小田原攻めのちは徳川家康の領地となり、大久保氏が入城し近世小田原城が築かれることとなります。現在の天守閣は大久保氏改易の後を継いだ稲葉氏の時代のものと言います。

歩き始めは小田原駅の西口、ロータリーには北条早雲の銅像がそびえています。最初は八幡山古城曲輪の土塁です。見上げる土壁は八幡山古郭の曲輪、北条早雲時代の本丸は八幡山に築かれていました。しかし現在はマンションなどの建設により本丸跡の遺構などを見付けることができません。

八幡山古郭の案内板にあった本曲輪の遊歩道も工事で通行止めになっていました。

八幡山古郭東曲輪の土塁
八幡山古郭の案内板
八幡山古郭の遊歩道へは通行止め
百段坂

百段坂は県立高校の通学路のようで、たくさんの学生が下ってきます。毎日この階段を歩くのはかなり足腰が丈夫になるのでしょう。

八幡山西曲輪の周辺には三味線堀遺構があります。現地の案内板によると空堀の底には敵兵の移動を制約するため堀障子があり設けられていたとされています。

三味線堀の案内板
八幡山の道標
城山には小田原高等学校
大久保神社

城山公園の手前で道を左に、緩やかに下っていく道の先には大久保忠世と忠真を祀る大久保神社があります。

大久保忠世は徳川家康の家臣、長篠の戦で活躍し遠州二俣城主になりました。豊臣秀吉の小田原攻めにも参戦し、戦後は小田原城主になったと言います。天下のご意見番としても知られているのが大久保彦左衛門忠教は忠世の異母兄弟と言います。

毒榎平の道標
城山公園には忠霊塔

城山公園の周辺は毒榎平と言います。広い公園には満開の桜を愛でに訪れる人々がお弁当を広げていました。

 

 城山公園~小峰御鐘ノ台大堀切~居神神社~大九寺~報徳二宮神社~小田原城~小田原駅東口


この公園の北には小峰御鐘ノ台大堀切があります。八幡山は箱根山から尾根伝いに続いているために設けられた大規模な堀切です。堀切の周辺には土塁も残っていました。

現在は道路などで寸断され東堀、中堀、西堀と呼ばれていますが総構とともに戦国時代の小田原城の特徴をよく表し後北条氏の土木技術の高さを良く表しているところです。

小峰鐘ノ台大堀切の土塁
小峰鐘ノ台大堀切西堀の案内板
西堀には障子掘り
小峰鐘ノ台大堀の案内板

東堀の先は西堀、浅い堀には堀障子が残っているようです。ここは西堀と総構が接しているところです。大きな空堀と総構の組み合わせで山の尾根を遮断し、小田原城の防御を堅固なものにしているということです。

土塁に包まれるように続く東堀の中を下っていくと東堀の南端、舗装道路を超えると三ノ丸外郭新堀土塁の案内板があります。目の前には白銀山や二子山など箱根の山々、桜の花が見える小高い山は一夜城で知られる石垣山です。

小峰鐘ノ台大堀
三ノ丸外郭新堀土塁の案内板
目の前に石垣山
鉄砲矢場の道標

ここからは舗装道路を下っていきます。鉄砲矢場の先で道を左に折れると伝肇寺です。みみづく寺として知られたお寺は北原白秋が住んでいたところとか、境内には童謡かやの木地蔵にも登場する地蔵堂がありました。

国道1号線を左に折れると三浦善意を祀る居神神社です。境内には北条氏綱の「勝って甲の緒を締めよ」の碑文があります。日本海海戦ののち東郷平八郎が語った連合艦隊解散ノ辞にある「古人曰く、勝って甲の緒を・・」の古人は北条氏綱のことのようです。

伝肇寺
民家のような玉伝寺
居神神社
境内には古い石仏

また、社殿の裏には古井石仏や石碑が祀られています。浮彫や線掘りで描かれた五輪塔は初めて見るもの、風化して読めない板碑も2基祀られていました。

早川口を超えると程なく山角天神社、日本海海戦でも活躍した瓜生外吉海軍大将ゆかりの地ということから近くの坂を瓜生坂と呼びます。

清閑院を超えると二宮神社です。大きな幟が掲げられた参道はたくさんの参拝客でにぎわっています。

大九寺
山角天神社
清閑院は臨時休業
二宮神社の尊徳像

二宮尊徳は江戸時代の経世家、農政家、思想家です。戦前の教科書にも登場し小学校の校庭にも二宮尊徳像が設立されていました。軍国教育の象徴となっていたことから児童の教育方針にそぐわないとされ多くの学校から撤去されています。神社の参道には薪を背負った二宮尊徳の像がありました。

小田原城公園はたくさんの観光客、海外のお客さんも目立つようです。新型コロナの影響で自粛などが続いていましたが久しぶりのお花見、しばらく天気が悪かったことから人出も多かったのでしょう。

二宮神社の拝殿
小峰曲輪北堀
地震で崩れた本丸の石垣
小田原城の案内板

浅い水をたたえる堀は小峰曲輪北堀です。桜の花が咲く天守閣を見上げながら歩く道には滑り落ちた本丸の石垣の案内板があります。

小田原城の多くの石垣は関東大震災で崩れ落ち城内にあった小田原御用邸の建物も崩壊しました。ここの石垣は積み上げられた姿のままで滑り落ちたため、江戸時代の石垣の姿をよく残すところと言います。

銅門
住吉掘りから眺める天守閣
桜を水面に映す二ノ丸東堀
隅櫓の先に天守閣
桜を水面に映す二ノ丸東堀
北条氏政・氏照の墓所

銅門から桜の花を眺めながらお堀沿いをたどり小田原駅へ、最後は観光気分を味わえた小田原の古城歩きでした。

 

 コース GPSmap


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 北条早雲(ほうじょうそううん)

1432~1519年、室町後期の武将。後北条氏の祖。初め伊勢新九郎長氏と称し出家して早雲庵宗瑞と号す。駿河の今川氏を頼って次第に頭角を現した。のち堀越公方の足利茶々丸を倒して伊豆韮山にらやまに進出した。小田原を本拠として南関東制覇の基礎を築いた。

 

 上杉謙信(うえすぎけんしん)長尾景虎(ながおかげとら)

1530~1578年、戦国時代の武将。越後守護代長尾為景の子。景虎、政虎、輝虎と改名する。越後春日山城にあって北陸地方一帯を領有、小田原北条氏、甲斐武田氏と対抗した。特に武田信玄との川中島の戦いは有名。

 

 武田信玄(たけだしんげん)

1521~1573年、戦国時代の武将。名は晴信。父、信虎を追放して家督を継ぎ信濃に進出する。越後の上杉謙信と川中島で激戦を展開した。1572年、西上の途次三方ヶ原(みかたがはら)で徳川家康を破ったが翌年三河の陣中で病没。軍略家としてすぐれ信玄家法を制定、鉱山開発・治水にも業績をあげた。

 

 豊臣秀吉(とよとみひでよし)

1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。

天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。

 

 徳川家康(とくがわいえやす)東照大権現(とうしょうだいごんげん)

1543~1616年、江戸幕府初代将軍。松平広忠の長男。織田信長と結んで駿河を、豊臣秀吉と和して関東を支配。豊臣秀吉の死後石田三成関ヶ原の戦いに破り、慶長8年(1603年)征夷大将軍となって江戸に幕府を開いた。武家諸法度などを定めて幕政の基礎を築いた。

 

 長篠の戦(ながしののたたかい)

1575年5月、長篠城の西方設楽原で行われた織田信長徳川家康連合軍と武田勝頼軍との戦い。連合軍は多量の鉄砲を用いて大勝利を得た。

 

 北条氏綱(ほうじょううじつな)

1487~1541年、戦国時代の武将。後北条氏第2代。早雲(伊勢宗瑞)の子。1524年(大永4)江戸城に扇谷上杉朝興を攻め川越城に敗走させて武蔵に進出した。鎌倉の鶴岡八幡宮の造営した、

 

 後北条氏(ごほうじょう)

伊勢宗瑞(北条早雲)を始祖とし、氏綱、氏康、氏政、氏直と5代にわたり相模の小田原城を本拠として関東に雄飛した戦国大名。北条早雲は1476年(文明8年)に今川家内紛の調停役として歴史の舞台に登場した。

やがて駿河の興国寺城主となり、1491年(延徳3)には足利茶々丸を討って伊豆を平定し韮山城に移る。1495年(明応4)小田原城に大森藤頼を攻めてこれを奪い関東進出の第一歩をしるした。

 

 堀越公方(ほりごえくぼう)

古河公方に対抗するため上杉氏は幕府に新たな鎌倉公方の下向を求めました。幕府は将軍義政の弟足利政知(あしかがまさとも)を東下させましたが、鎌倉に入ることができず伊豆の堀越に御所を構えました。

延徳3年(1491年)あとを継いだ子の茶々丸が北条早雲に攻められ滅亡。

 

 上杉謙信(うえすぎけんしん)長尾景虎(ながおかげとら)

1530~1578年、戦国時代の武将。越後守護代長尾為景の子。景虎、政虎、輝虎と改名する。越後春日山城にあって北陸地方一帯を領有、小田原北条氏、甲斐武田氏と対抗した。特に武田信玄との川中島の戦いは有名。

 

 徳川家康(とくがわいえやす)東照大権現(とうしょうだいごんげん)

1543~1616年、江戸幕府初代将軍。松平広忠の長男。織田信長と結んで駿河を、豊臣秀吉と和して関東を支配。豊臣秀吉の死後石田三成関ヶ原の戦いに破り、慶長8年(1603年)征夷大将軍となって江戸に幕府を開いた。武家諸法度などを定めて幕政の基礎を築いた。

 

 織田信長(おだのぶなが)

1534~1582年、戦国・安土桃山時代の武将。織田信秀の子。桶狭間に今川義元を討って尾張一国を統一。京都に上って比叡山を焼き、浅井氏・朝倉氏を破り、将軍足利義昭(あしかがよしあき)を追放、武田勝頼を三河の長篠に破った。中国出陣の途中、京都本能寺で明智光秀の謀反にあった。

 

 豊臣秀吉(とよとみひでよし)

1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。

天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。

 

 明智光秀(あけちみつひで)

1528~1582年、戦国・安土桃山時代の武将。美濃の生まれ。織田信長に重用されたが、1582年6月2日、京都本能寺に信長を襲い自害させた。山崎の戦いで豊臣秀吉に敗れ逃走中土民に殺された。

 

 柴田勝家(しばたかついえ)

1522~1583年、安土桃山時代の武将。織田信長の臣。越前北ノ庄に拠って北陸を支配。本能寺の変後、豊臣秀吉と対立、賤ヶ岳の戦いに敗れ北ノ庄で自害した。

 

 織田信長(おだのぶなが)

1534~1582年、戦国・安土桃山時代の武将。織田信秀の子。桶狭間に今川義元を討って尾張一国を統一。京都に上って比叡山を焼き、浅井氏・朝倉氏を破り、将軍足利義昭(あしかがよしあき)を追放、武田勝頼を三河の長篠に破った。中国出陣の途中、京都本能寺で明智光秀の謀反にあった。

 

 豊臣秀吉(とよとみひでよし)

1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。

天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。

 

 石田三成(いしだみつなり)

1560~1600年、安土桃山時代の武将。豊臣秀吉に重用され、五奉行の一人として太閤検地などに活躍。秀吉の死後、遺子秀頼を擁ようして徳川家康と対立、関ヶ原の戦いに敗れ京で斬首された。

 

 関ヶ原の戦

慶長5年(1600年)関ヶ原で石田三成らの西軍と徳川家康らの東軍とが天下を争った戦い。小早川秀秋の寝返りにより東軍が大勝した。石田三成らは処刑され豊臣秀頼は60万石の大名に転落した。これにより徳川氏の覇権が確立した。

 

 織田信長(おだのぶなが)

1534~1582年、戦国・安土桃山時代の武将。織田信秀の子。桶狭間に今川義元を討って尾張一国を統一。京都に上って比叡山を焼き、浅井氏・朝倉氏を破り、将軍足利義昭(あしかがよしあき)を追放、武田勝頼を三河の長篠に破った。中国出陣の途中、京都本能寺で明智光秀の謀反にあった。

 

 徳川家康(とくがわいえやす)東照大権現(とうしょうだいごんげん)

1543~1616年、江戸幕府初代将軍。松平広忠の長男。織田信長と結んで駿河を、豊臣秀吉と和して関東を支配。豊臣秀吉の死後石田三成関ヶ原の戦いに破り、慶長8年(1603年)征夷大将軍となって江戸に幕府を開いた。武家諸法度などを定めて幕政の基礎を築いた。

 

 武田勝頼(たけだかつより)

1546~1582年、戦国時代の武将。武田信玄の子。信玄没後家督を継ぎ美濃・遠江・三河に進出したが、長篠の戦いに大敗。以後衰運をたどり織田・徳川軍に追い詰められ天目山麓で自刃、武田氏は滅亡した。

 

 後北条氏(ごほうじょう)

伊勢宗瑞(北条早雲)を始祖とし、氏綱、氏康、氏政、氏直と5代にわたり相模の小田原城を本拠として関東に雄飛した戦国大名。北条早雲は1476年(文明8年)に今川家内紛の調停役として歴史の舞台に登場した。

やがて駿河の興国寺城主となり、1491年(延徳3)には足利茶々丸を討って伊豆を平定し韮山城に移る。1495年(明応4)小田原城に大森藤頼を攻めてこれを奪い関東進出の第一歩をしるした。

 

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