左馬神社 


 寺社の種類:旧村社
 創建の時期:-
 本殿の形式:-
 所在地:神奈川県横浜市泉区下飯田町1389
 訪問日:2022年5月4日

 

境川周辺には12社の左馬社があると言います。源義朝、源満仲の官職だった左馬頭(さまのかみ)から名付けられた神社です。

伝承によると飯田郷の地頭、飯田五郎家義が勧請したと言い、小田原北条時代には下飯田を治めた川上藤兵衛がこの神社に武運長久を祈願したと言われています。

天正18年(1590年)下飯田の領主になった筧助兵衛(かけいすけひょうえ)為春は、地域の鎮守さまとして信仰し社殿の修復をしたと言います。

境内の奥には朱塗りの拝殿がありました。境内の樹叢は神奈川県の風致保安林に指定されています。

左馬神社の鳥居
境内に下飯田会館
左馬神社の参道
参道に石仏
参道の奥に拝殿
拝殿の内部
境内に摂社
参道に石灯篭

境川周辺では疫病が流行すると左馬社をめぐるザバ参りの信仰があると言います。

 

関連記録・コース

 源義朝(みなもとよしとも)

1123~1160年、平安末期の武将。源為義の長男。保元の乱後白河天皇方に加わり功によって左馬頭となった。のち平清盛と対立、平治の乱を起こして敗死した。

 

 保元の乱(ほげんのらん)

保元元年(1156年)京都に勃発した内乱。皇位継承に関する崇徳上皇と後白河天皇との対立に、摂関家の藤原頼長と忠通との家督争いが結びつき、上皇・頼長側は源為義・平忠正、後白河・忠通側は源義朝平清盛らの武士団を招じ入れて戦い上皇方が敗北した。上皇は讃岐に流され、頼長は戦傷死した。この乱はのちの武家政権成立への端緒をなした。

 

 後白河天皇(ごしらかわてんのう)

第77代の天皇、在位1155年7月24日~1158年8月11日。鳥羽天皇の第4皇子。即位の際、崇徳上皇と対立、保元の乱を生じた。二条天皇に譲位後、五代にわたって院政をおこない、平氏政権から鎌倉幕府権力の確立に至る変革期にあって朝廷権威の存続を巧みにはかった。1169年出家して法皇となり、造寺・造仏に尽くした。陵墓は京都府京都市東山区三十三間堂廻リの法住寺陵。

 

 平清盛(たいらのきよもり)

1118~1181年、平安末期の武将。平忠盛の長男。白河法皇の落胤とも伝えられる。父の地位と遺産を受け継いで政界に進出。保元の乱平治の乱により対立勢力を一掃、従一位太政大臣となる。娘徳子を高倉天皇に入内させ官職を一門で独占、知行三十余国に及ぶ平氏政権を樹立した。

 

 平治の乱(へいじのらん)

保元の乱(ほげんのらん)の後、平治1年(1159年)12月、京都に勃発した内乱。後白河上皇の近臣間の暗闘が源平武士団の対立に結びつき、藤原信頼・源義朝による上皇幽閉、藤原通憲(信西)殺害という事件に発展した。しかし平清盛の計略によって上皇は脱出し、激しい合戦のすえ源氏方は敗北した。これ以後、平氏の政権が成立した。

 

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