御霊神社(相模御霊神社) 


 寺社の種類:旧村社
 創建の時期:-
 本殿の形式:-
 所在地:神奈川県横浜市泉区中田北3丁目42-1
 訪問日:2022年2月5日

 

藤沢市の村岡御霊神社に伝わる仁安2年(1167年)記の文書に当地の地名があり、分社したと記されています。

石鳥居から暗い参道を進むと小さな池の中に祠があります。池のほとりには村岡川源流、弁天の湧水と刻まれた石碑が建っていました。

かつてこの一帯は村岡郷、俣野郷と別れていたため、深谷から上流は村岡川と呼ばれていたようです。

また弁手池の水はが眼病に効くと言うことから眼病平癒の神様として信仰を集めるていると言います。

表参道に石鳥居
御領神社の案内板
池の中に弁天社
宇田川の源泉
弁天の湧水
御手水場
参道に狛犬
境内に神楽殿
境内の奥に拝殿
拝殿
拝殿に神額
現在は神輿蔵
矢並稲荷社
境内の摂社
境内に石祠
古い庚申塚
庚申塚の案内板
右とつか道?
西大山道・東かしを道
境内に庚申塔
庚申塔の案内板

境内に置かれた庚申塚は大山道と柏尾道の分岐に建てられていたもので、「右とつか道、東かしを道、西大山道」と記されています。

 

関連記録・コース

 平景正(たいらのかげまさ)鎌倉権五郎景政(かまくらごんごろうかげまさ)

平安末期の武士。源義家に属して後三年の役に従軍、右眼を射られながら相手を討ち取った。大庭氏の祖。

 

 日本武尊・倭建命(やまとたけるのみこと)

日本の古代史における伝承上の英雄。景行天皇の皇子です。気性が激しいため天皇に敬遠され、九州の熊襲(くまそ)や東国の蝦夷(えぞ)の討伐に遣わされたといわれています。風土記なども含めてさまざまな伝説が残っています。

 

 源義家(みなもとよしいえ)八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)

平安時代後期の武将、八幡太郎義家として知られる。比叡山等の強訴の頻発に際しその鎮圧や白河天皇の行幸の護衛に活躍する。前九年の役で父を助けて安倍氏を討ち後に陸奥国守となった。清原氏の内紛に介入して後三年の役を起こした。東国における源氏勢力の基盤をつくった。

 

 後三年の役(ごさんねんのえき)

平安後期の1083年から1087年、奥羽の豪族清原氏が起こした戦乱。清原氏内部の相続争いが発端であったが、陸奥守として下向した源義家が清原清衡(藤原清衡)とともに、清原家衡・武衡を金沢柵(かねざわのさく)に下して平定した。これにより清衡は平泉における藤原三代の基をつくり、義家は東国に源氏の勢力基盤を築いた。

 

 景行天皇(けいこうてんのう)、大足彦忍代別尊(おおたらしひこおしろわけのみこと)

第12代天皇(在位:71年7月11日~130年11月7日 )垂仁天皇の第三皇子。都は大和の纏向日代宮(まきむくのひしろのみや)。熊襲くまそを征討し、皇子の日本武尊(やまとたけるのみこと)を派遣して蝦夷を平定したという。陵墓は奈良県天理市渋谷町の山辺道上陵。

 

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