浅間神社 


 寺社の種類:旧村社
 創建の時期:承暦4年(1080年)
 主祭神:木花咲耶姫命
 本殿の様式:浅間造
 所在地:神奈川県横浜市西区浅間町1丁目19-10
 訪問日:2018年1月16日、2023年4月20日

 

横浜市西区にある神社。承暦4年(1080年)源頼朝が浅間神社を勧請して造営されたと伝えられています。

この地は袖ヶ浦(入江)に面した帷子川の河口港として栄え、江戸時代は東海道五十三次の神奈川宿と程ヶ谷宿の間の宿でした。

関東大震災や太平洋戦争で社殿は焼失し、現在の社殿は昭和になって再興されたものです。

 訪問日:2018年1月16日

境内は旧東海道から長い石段を登って行くことになります。袖すり山と呼ばれる小高い台地の上の境内には真っ赤な浅間造りの社殿がそびえていました。

石段の脇にはたくさんの石碑
参道の上に赤い鳥居
境内に招魂社
浅間造りの社殿
石鳥居の先に拝殿
軒に龍の彫刻
境内に案内板
境内の稲荷社

 

 訪問日:2023年4月20日

急な石段を登ると展望が開ける境内です。かつてはここから富士山が見えたのでしょうか、近くには浅間台の地名もあります。目の前は神奈川湊、今は高いビルで港も見えません。

鳥居から急な石段
赤い鳥居
鳥居の先に拝殿
朱塗りの拝殿

 

関連記録・コース

 木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)神阿多都比売命(かむあたつひめのみこと)、葦津姫命(かやつひめのみこと)

日本神話に登場する神様。古事記では瓊々杵命(ににぎのみこと)の妻となります。富士山の神とされ各地の浅間神社で祀られています。子育ての神、子安神としても篤く信仰されています。

 

 浅間造(せんげんづくり)

神社建築様式の一つ。社殿の上にさらに別の社殿が載った二階建ての建築様式で、神社建築としては特殊な形式である。富士山本宮浅間大社、静岡浅間神社、多摩川浅間神社、浅間神社 (横浜市西区)の4社のみとされている。

 

 源頼朝(みなもとよりとも)

1147~1199年 鎌倉幕府初代将軍。義朝の三男。平治の乱のち伊豆蛭ヶ小島に配流される。1180年以仁王もちひとおうの平氏追討の令旨に応じ挙兵。石橋山の戦いに敗れ安房に逃げたが東国武士の来援を得て関東を制し鎌倉にはいって根拠地とした。平維盛の追討軍を富士川に破り弟の範頼・義経を西上させ、85年壇ノ浦で平氏を討滅し全国を平定。全国に守護・地頭を設置、武家政治の基礎を確立。

 

 邇邇芸命・瓊瓊杵尊・瓊々杵尊・彦火瓊瓊杵・火瓊瓊杵(にぎにぎのみこと)・天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)

日本神話に登場する神様。天照大神(あまてらすおおみかみ)の孫。天忍穂耳尊(あまのおしほみみのみこと)の子。天照大神の命で葦原の中つ国を統治するため、高天原から高千穂峰に天降ったとされる。木花開耶姫(このはなのさくやびめ)を妻とし、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)を生んだ。

 

 平治の乱(へいじのらん)

保元の乱(ほげんのらん)の後、平治1年(1159年)12月、京都に勃発した内乱。後白河上皇の近臣間の暗闘が源平武士団の対立に結びつき、藤原信頼・源義朝による上皇幽閉、藤原通憲(信西)殺害という事件に発展した。しかし平清盛の計略によって上皇は脱出し、激しい合戦のすえ源氏方は敗北した。これ以後、平氏の政権が成立した。

 

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