平泉藤原氏の追討により源頼朝から遠野郷を賜った阿曽沼広綱が宇夫方広房を代官として送り、松崎村駒林に館を築き、氏神である八幡神をまつり遠野郷を統治したのが始まりと言います。
その後、阿曽沼広綱が横田城を築き鬼門ある宮代に八幡宮を勧請して崇敬しました。
遠野郷の総鎮守とし9月の例祭には鹿子踊りや流鏑馬などが祭りを盛り上げると言います。
境内にはたくさんの摂社のほか古い石碑があります。大きな石碑は馬魂碑、現地の案内板によると遠野は古くから馬の生産地で南部駒として軍馬や農耕馬を陸軍省や農林省に納めていたと言います。
日本で信仰される神で、清和源氏、桓武平氏など全国の武家から弓矢八幡として崇敬を集めました。誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、応神天皇と同一とされます。
また早くから神仏習合がなり、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)として神宮寺が祀られました。
1147~1199年 鎌倉幕府初代将軍。義朝の三男。平治の乱のち伊豆蛭ヶ小島に配流される。1180年以仁王もちひとおうの平氏追討の令旨に応じ挙兵。石橋山の戦いに敗れ安房に逃げたが東国武士の来援を得て関東を制し鎌倉にはいって根拠地とした。平維盛の追討軍を富士川に破り弟の範頼・義経を西上させ、85年壇ノ浦で平氏を討滅し全国を平定。全国に守護・地頭を設置、武家政治の基礎を確立。
保元の乱(ほげんのらん)の後、平治1年(1159年)12月、京都に勃発した内乱。後白河上皇の近臣間の暗闘が源平武士団の対立に結びつき、藤原信頼・源義朝による上皇幽閉、藤原通憲(信西)殺害という事件に発展した。しかし平清盛の計略によって上皇は脱出し、激しい合戦のすえ源氏方は敗北した。これ以後、平氏の政権が成立した。