津久井城(筑井城) 


 城郭の構造:根小屋式山城
 築城の時期:鎌倉時代、筑井氏
 廃城の時期:天正18年(1590年)
 主な城主:筑井氏、後北条氏
 所在地:神奈川県相模原市緑区
 訪問日:2015年4月12日

 

津久井城は鎌倉時代に三浦党の筑井氏が築城されたと言われています。武蔵と甲斐、相模を結ぶ交通の要衝地であったことから、戦国時代には北条氏の有力支城の一つとして重要な役割を果たしていました。

豊臣秀吉小田原攻めにおいては徳川勢の本田忠勝、平岩親吉らに攻められ落城したと伝えられています。

津久井湖城山公園の入り口
津久井湖城山公園の案内板
公園は花ウメが満開
筑井城址の石碑
男坂と女坂の分岐
女坂を登ります
稜線で男坂からの道を合わせ
太鼓曲輪
堀切と引橋の案内板
堀切と引橋の案内板
土蔵跡
津久井城遺構の案内板

津久井湖を見下ろす一帯は津久井湖城山公園として整備され、家族連れなどの楽しむことのできる広場となっています。

本城曲輪を巻くように続く女坂を登って行くと男坂から上ってくる道を合わせる尾根にたどり着きます。本城曲輪への途中には堀切跡、太鼓曲輪、土蔵などの遺構も残っていました。

本城曲輪と土塁の案内板
本城曲輪
津久井城の石碑
本城曲輪からの展望
津久井城の案内板
飯縄曲輪に神社の鳥居
飯縄曲輪
飯縄神社の狛犬
飯縄神社の狛犬
鉄策に囲まれた飯縄神社
烽火台と鐘撞堂の案内板
飯縄曲輪からの展望

土塁をめぐらせた本城曲輪には城郭の案内図と津久井古城記碑が建っていました。

小田原北条氏ゆかりの城

 豊臣秀吉(とよとみひでよし)

1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。

天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。

 

 小田原征伐(おだわらせいばつ)・小田原攻め(おだわらぜめ)北条征伐(ほうじょうせいばつ)

1590年豊臣秀吉が天下統一のため小田原の北条氏(後北条氏)を滅ぼした戦い。秀吉は兵農分離による組織化された軍事力と強力な物量作戦を展開し、関東の北条氏の支城を次々と落とし本城小田原城を3ヵ月余にわたり攻囲・降伏させた。

 

 織田信長(おだのぶなが)

1534~1582年、戦国・安土桃山時代の武将。織田信秀の子。桶狭間に今川義元を討って尾張一国を統一。京都に上って比叡山を焼き、浅井氏・朝倉氏を破り、将軍足利義昭(あしかがよしあき)を追放、武田勝頼を三河の長篠に破った。中国出陣の途中、京都本能寺で明智光秀の謀反にあった。

 

 豊臣秀吉(とよとみひでよし)

1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。

天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。

 

 明智光秀(あけちみつひで)

1528~1582年、戦国・安土桃山時代の武将。美濃の生まれ。織田信長に重用されたが、1582年6月2日、京都本能寺に信長を襲い自害させた。山崎の戦いで豊臣秀吉に敗れ逃走中土民に殺された。

 

 柴田勝家(しばたかついえ)

1522~1583年、安土桃山時代の武将。織田信長の臣。越前北ノ庄に拠って北陸を支配。本能寺の変後、豊臣秀吉と対立、賤ヶ岳の戦いに敗れ北ノ庄で自害した。

 

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