長興山妙本寺 


 寺社の種類:日蓮宗の霊跡本山
 創建の時期:1260年(文応元年)、日蓮が開山
 本尊:三宝尊
 所在地:神奈川県鎌倉市大町1-15
 訪問日:2014年5月7日

 

妙本寺のある比企谷は源頼朝の信任厚かった御家人比企能員の屋敷があったところです。

妙本寺の石碑
大きな総門
妙本寺の案内板
近くに六角形の幼稚園

源頼朝亡き後の1203年(建仁3年)9月、北条氏との権力争いに敗れた比企一族はこの地で滅亡し、二代将軍源頼家も伊豆修禅寺に幽閉されたのち暗殺されました。

方丈門
参道はつつじの花
本堂
緑の中に鐘楼

岡本綺堂の修善寺物語は源頼家の死にまつわる戯曲として書かれたものです。

二天門
境内の案内板
大きな日蓮上人像
大きな祖師堂

妙本寺は比企の乱で京都に生き延びた能員の末子、比企大学三郎能本(よしもと)が一族の菩提を弔うために建立した古刹で身延山久遠寺、池上本門寺とともに日蓮宗最古の寺の一つです。

軒に千社札
暗い本堂の内陣
前田利家室五輪塔
比企一族の墓

境内には、比企一族の供養塔、頼家の側室若狭局を祀る蛇苦止明神、頼家の子一幡(6歳)の袖塚があります。

 日蓮宗(にちれんしゅう)

仏教の一宗派。鎌倉時代に日蓮が開いた。法華経を所依(しょえ)とし南無妙法蓮華経の題目を唱える実践を重んじ、折伏(しゃくぶく)・摂受(しょうじゅ)の二門を立て、現実における仏国土建設をめざす。

 

 三宝尊(さんぼうそん)

日蓮宗の本尊。仏、法、僧の三宝を祀るための仏像を三宝尊と言う。また庶民にとって高価な仏像を祀ることは困難であり日蓮は諸尊を書いた十界曼荼羅を庶民に与えた。

 

 源頼朝(みなもとよりとも)

1147~1199年 鎌倉幕府初代将軍。義朝の三男。平治の乱のち伊豆蛭ヶ小島に配流される。1180年以仁王もちひとおうの平氏追討の令旨に応じ挙兵。石橋山の戦いに敗れ安房に逃げたが東国武士の来援を得て関東を制し鎌倉にはいって根拠地とした。平維盛の追討軍を富士川に破り弟の範頼・義経を西上させ、85年壇ノ浦で平氏を討滅し全国を平定。全国に守護・地頭を設置、武家政治の基礎を確立。

 

 源頼家(みなもとよりいえ)

1182~1204年、鎌倉幕府2代将軍。源頼朝の長男。頼朝の死により家督を継ぎ、1202年征夷大将軍に任じられたが、北条時政らに実権を奪われた。比企能員(ひきよしかず)とともに北条氏追討を企てるも失敗、伊豆修善寺に幽閉され謀殺された。

 

 比企能員の変(ひきよしかずのへん)、比企氏の乱(ひきしのらん)

鎌倉時代初期の建仁3年(1203年)鎌倉幕府内部で起こった政変。2代将軍源頼家の外戚として権勢を握った比企能員とその一族が、北条時政の謀略によって滅ぼされた。

 

 日蓮(にちれん)・立正大師

鎌倉時代の僧。日蓮宗の開祖。安房小湊の漁師の子という。17歳ころから鎌倉・比叡山などで11年間修行研鑽し、法華経こそ至高の経典であるとの確信を得、1253年故郷の清澄山頂で題目を高唱して開宗した。

 

 日蓮宗(にちれんしゅう)

仏教の一宗派。鎌倉時代に日蓮が開いた。法華経を所依(しょえ)とし南無妙法蓮華経の題目を唱える実践を重んじ、折伏(しゃくぶく)・摂受(しょうじゅ)の二門を立て、現実における仏国土建設をめざす。

 

 平治の乱(へいじのらん)

保元の乱(ほげんのらん)の後、平治1年(1159年)12月、京都に勃発した内乱。後白河上皇の近臣間の暗闘が源平武士団の対立に結びつき、藤原信頼・源義朝による上皇幽閉、藤原通憲(信西)殺害という事件に発展した。しかし平清盛の計略によって上皇は脱出し、激しい合戦のすえ源氏方は敗北した。これ以後、平氏の政権が成立した。

 

 源頼朝(みなもとよりとも)

1147~1199年 鎌倉幕府初代将軍。義朝の三男。平治の乱のち伊豆蛭ヶ小島に配流される。1180年以仁王もちひとおうの平氏追討の令旨に応じ挙兵。石橋山の戦いに敗れ安房に逃げたが東国武士の来援を得て関東を制し鎌倉にはいって根拠地とした。平維盛の追討軍を富士川に破り弟の範頼・義経を西上させ、85年壇ノ浦で平氏を討滅し全国を平定。全国に守護・地頭を設置、武家政治の基礎を確立。

 

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