小金城(別名:大谷口城、開花城) 


 城郭の構造:平山城
 築城の時期:天文6年(1537年)、高城胤吉が築城
 廃城の時期:文禄2年(1593年)
 主な城主: 高城氏、武田信吉
 所在地:千葉県松戸市
 訪問日:2013年3月20日

 

小金城は下総西部を支配した高城氏の本拠に築かれた中世の平山城です。大谷口城、開花城とも呼ばれ水運に恵まれた城下には小金宿が開かれ、本土寺や東漸寺などの古刹もあります。

大谷口歴史公園の案内板
駐車場に歴史公園の案内板
障子彫り
障子彫りの説明

高城氏は千葉氏の家老原氏の重臣で、上杉氏の下総侵入を防ぐ拠点として天文6年(1537年)築城されました。

金杉口
金杉口の説明
本丸跡に土塁
土塁の説明
小金城跡の石碑
小金城跡の航空写真

天正18年(1590年)、豊臣秀吉小田原征伐において高城氏は北条氏に従い小田原城に篭城、小金城は豊臣氏方の浅野長政らに攻められ開城しました。その後、徳川家康の五男、武田信吉が居城としましたた。

畝堀
畝堀の説明
馬屋敷跡

現在の城郭はほぼ全域が住宅地となり一部が大谷口歴史公園として整備されています。松戸市の発掘調査が行われ、往時の畝堀や障子堀、土塁などの遺構が保存されています。

 豊臣秀吉(とよとみひでよし)

1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。

天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。

 

 小田原征伐(おだわらせいばつ)・小田原攻め(おだわらぜめ)北条征伐(ほうじょうせいばつ)

1590年豊臣秀吉が天下統一のため小田原の北条氏(後北条氏)を滅ぼした戦い。秀吉は兵農分離による組織化された軍事力と強力な物量作戦を展開し、関東の北条氏の支城を次々と落とし本城小田原城を3ヵ月余にわたり攻囲・降伏させた。

 

 織田信長(おだのぶなが)

1534~1582年、戦国・安土桃山時代の武将。織田信秀の子。桶狭間に今川義元を討って尾張一国を統一。京都に上って比叡山を焼き、浅井氏・朝倉氏を破り、将軍足利義昭(あしかがよしあき)を追放、武田勝頼を三河の長篠に破った。中国出陣の途中、京都本能寺で明智光秀の謀反にあった。

 

 豊臣秀吉(とよとみひでよし)

1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。

天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。

 

 明智光秀(あけちみつひで)

1528~1582年、戦国・安土桃山時代の武将。美濃の生まれ。織田信長に重用されたが、1582年6月2日、京都本能寺に信長を襲い自害させた。山崎の戦いで豊臣秀吉に敗れ逃走中土民に殺された。

 

 柴田勝家(しばたかついえ)

1522~1583年、安土桃山時代の武将。織田信長の臣。越前北ノ庄に拠って北陸を支配。本能寺の変後、豊臣秀吉と対立、賤ヶ岳の戦いに敗れ北ノ庄で自害した。

 

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