川之江城(仏殿城) 


 城郭の構造:山城
 築城の時期:延元3年(1337年)、土肥義昌
 廃城の時期:不明
 主な城主:土肥氏、妻鳥氏、河上氏
 所在地:愛媛県四国中央市川之江町大門
 訪問日:2011年10月30

 

讃岐、伊予、土佐を結ぶ交通の要衝である川之江には河野氏の川之江城があります。

川之江城は戦国時代、南朝方の武将である河野氏の砦の一つとして土肥義昌が延元2年(1337年)に築いた城です。その後城主は目まぐるしく変わり加藤嘉明の時代には廃城になりました。一時は本丸の石垣が僅かに名残をとどめるだけであったものを、川之江市の市制30周年事業として天守閣、楼門などを復興したものと言います。

川之江城の石碑
川之江城の案内板
大手門
大手門をくぐり本丸へ

公園の中の狭い道を登ると駐車場がありました。大手門から本丸の中に入ると正面にい大きな3層の天守閣、コンクリート造りの建物は資料館となっていましたが見るべきものは少ないようです。

本丸の中に天守閣
コンクリート造りの復興天主閣
天守閣から見下ろす本丸
雨に濡れる川之江の町

 加藤嘉明(かとうよしあき)

1563~1631年、安土桃山時代の武将。豊臣秀吉につかえる。賤ヶ岳七本槍の一人。慶長の役の水軍の将。関ヶ原の戦いでは徳川方につき会津40万石を領した。

 

 豊臣秀吉(とよとみひでよし)

1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀・柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。

天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。

 

 賤ヶ岳七本槍(しずがたけしちほんやり)

賤ヶ岳の戦いで功名を上げた豊臣方の侍、脇坂安治、片桐且元、平野長泰、福島正則、加藤清正、糟屋武則、加藤嘉明

 

 慶長の役(けいちょうのえき)

慶長2年(1597年)、豊臣秀吉が文禄の役で明と和議をしたのち、明使のもたらした表文をめぐって再びに朝鮮に出兵した戦役。翌年秀吉の死後に撤兵した。

 

 関ヶ原の戦

慶長5年(1600年)関ヶ原で石田三成らの西軍と徳川家康らの東軍とが天下を争った戦い。小早川秀秋の寝返りにより東軍が大勝した。石田三成らは処刑され豊臣秀頼は60万石の大名に転落した。これにより徳川氏の覇権が確立した。

 

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