金刀比羅宮(金毘羅宮、琴平宮) 


 寺社の種類:国幣中社・別表神社
 創建の時期:-
 主祭神:大物主命、(相殿)崇徳天皇
 所在地:香川県仲多度郡琴平町892番地
 訪問日:2011年10月25日、2017年9月25日

 

金比羅さん、琴平宮などと呼ばれる金毘羅宮は標高521mの象頭山の中腹に祀られた神社で、「こんぴら舟々」と呼ばれるように舟の神さまとして崇められてきました。明治の神仏分離令までは神仏習合の金毘羅大権現と呼ばれ、松尾寺金光院が別当となっていました。参道の外れには四国八十八ヶ所番外としての松尾寺があります。

また御本宮までは785段、奥社までは1368段の長い階段でも知られ、石段をかごで登る本職の駕籠屋さんがいるのもここだけのようです。

 

 訪問日:2011年10月25日

土讃線の線路わきの駐車場に車を停め、こんぴらうどんの看板などが建ち並ぶ門前町の先から石段へ。何処かの小学生や若い女の子などたくさんの参拝客が息を切らせながら石段を登って行きます。金比羅さんをガイドする人の説明を聞きながら登って行く初老の団体客もいました。

金毘羅さんの門前町
こんぴらうどんのお店屋さん
石段を登る石段かご
土産物屋の先から石段が
琴陵宥常の銅像
見上げる大門
桜の馬場は桜がきれいなところ
古い歴史の石灯篭
長い石段が続いています
石段の傍らに並ぶ石塔
書院は拝観できるとか
摂社、払戸社

途中には古い石塔や摂社などが建ち並んでいますが数が多く良く判りませんでした。急な階段に汗を流したところが旭社です。天保8年(1837年)に建立された銅瓦葺の二層入母屋造の建物で松尾寺の金堂であった所と言います。

摂社、火雷社
石段の先に旭社
大きな黄銅鳥居をくぐり
伊勢神宮などの遙拝所
 
摂社、真須賀神社
急な石段を登って行きます
摂社、御年神社
摂社、事知神社
御本宮(ごほんぐう)

ここからさらに階段を上って行くと金毘羅宮の本宮です。本殿の周囲には睦魂神社や三穂津姫社などの摂社が祀られています。

それを取り巻く渡り廊下には灯篭が奉納されています。奈良の春日大社も石灯篭で知られていますがここも石灯篭の多い神社のようです。東日本大震災の影響なのか、石灯篭の傍には近寄らないでくださいの注意が書かれていました。

御本宮の内陣
金毘羅宮の拝殿
境内から眺める讃岐平野と讃岐富士
回廊わきには灯篭
境内社、三穂津姫社
絵馬堂
絵馬堂には奉納額

近くには絵馬堂があります。舟の神様と言うことで商船や巡視船などの奉納絵馬が掲げられていました。中央には堀江謙一さんのヨットが奉納されています。これはビールのアルミ缶をリサイクルしソーラーパネルを張り付けたもので名前もモルツマーメイド号とか。これで太平洋の荒波の中を横断するのは大変としか言いようがありません。

門前町にはこんぴらうどん
釜揚げおんたま

金比羅山のおみやげ屋さんにはうどんを商うお店が多いようです。中野うどん学校という看板を掲げているお店はうどん打ちを体験できるところとか、会津などでそば道場を見たことがありますが自分で打ったうどんの味ははたして如何でしょうか。

 

 訪問日:2017年9月25日

金刀比羅宮を訪れるのは3度目、コインパークに車を停め土産物屋が建ち並ぶ参道を歩き始めます。

時計はすでに12時すぎ、土産物屋の中のことひらうどんで讃岐うどんを食べていくことにします。注文したのはとり天ぶっかけ、揚げたてのうどんにだししょう油をかけただけのものです。讃岐うどんの腰の強さが際立つ食べ方です。

金比羅駅
参拝客でにぎわう門前町
こんぴらうどん
こんぴらうどんの大黒さん
しょうゆとり天
本殿まで785段の石段

金刀比羅宮の石段は本殿まで785段、奥社までは1368段の長い登りで知られています。先日の台風で奥社までの道は崩壊しているようで通行止め、それでも片道30分ほどの長い登りが待っています。

土産物屋長を通り抜け大門までは365段の急な石段です。体力のない人のために石段篭が用意されていましたが大門まで片道5,300円とか、山でのボッカも大変でしょうが60kg以上の重さを2人で担ぐのはかなりキツイな仕事のようです。

参拝客でにぎわう土産物屋
備前焼の狛犬
掃海母艦はやせの錨
掃海殉職者顕彰碑
顕彰碑の案内板
見上げる大門は365段
参道に金比羅本教総本部
飴を売る五人百姓の店

大門の先には五人百姓が名物の加美代飴を売っていました。その先は桜馬場、ここからは奉納石碑や石灯籠が建ち並ぶ金刀比羅さんの境内になります。書院を越えさらに石段を登って行くと旭社にたどり着きました。石段は628段、ご本殿への参拝は右手の黄銅鳥居から賢木門(さかきもん)をくぐり暗い急な石段を登ることになります。

奉納石碑が並ぶ桜馬場
急な石段を登り
黄銅鳥居の先に賢木門
遥拝所
在天之霊神徳・・の石碑
御手水場
真須賀神
ご本殿への石段
石段に事知神社
石段に百度石

たどり着いたご本殿はたくさんの人で賑わっています。石段は785段、標高は251mですが階段登りは思いのほか疲れるものです。

ご本殿
灯篭の脇にご本殿の案内板
神饌殿
展望台からは讃岐富士
ご本殿の内部
神楽殿

ご本殿脇の展望台に立つと琴平の街並みの中にそびえる讃岐富士、飯野山と呼ばれる頂は標高422mで地元では毎日登山を楽しんでいる人もいるところとか。剱岳や石槌山などの山は登ったことがありますが眉山など四国にも機会があれば登ってみたい低い山が幾つか残っています。

ご本殿に続く回廊
回廊の奥に神庫
回廊の奥に神輿庫
睦魂神社
拝殿の奥に本殿
御炊舎
三穂津姫神社
三穂津姫神社の神額
厳島神社
絵馬堂
絵馬堂の堀江謙一さんのヨット
急な階段を下って

ご本殿の裏手に回ると玉垣の中に本殿、丸に金のマークが飾り金具が施され金泥で描かれた楓が描かれていました。近くには三穂津姫神社や絵馬堂があります。絵馬堂にの中央には堀江謙一さんのヨットが奉納されてありました。

石段の途中に大山祇神社
お酒と醤油が奉納される旭社
大きな旭社
旭社の神額
火雷社と祓戸社は工事中
書院
表書院
石段から見下ろす琴平の町

帰りは急な階段を下り旭社へ、神仏混合時代の金刀比羅宮は象頭山松尾寺という真言宗の寺院で金比羅大権現が守護神として祀っていたとされています。そのあまりの豪華さに江戸時代に参拝した森の石松は本堂と誤り、ここへの参拝のみで帰ってしまったと伝えられているところです。

関連記録・コース

 大物主命(おおものぬしのみこと)

大和の三輪山に鎮座する神で大神神社の祭神。大国主(おおくにぬしの)神の異名とも言います。国津神の代表的存在で国譲り後たくさんの国津神をひきいて皇孫を守ったなどおおくの説話を持つ神です。蛇の姿をしており農業の守護神でもある。

 

 崇徳天皇(すとくてんのう)

第75代の天皇、在位1123年1月28日~1141年12月7日。鳥羽天皇の第1皇子。鳥羽法皇の死後、後白河天皇と争い保元の乱に敗れて讃岐(さぬき)に流されました。死後は怨霊として恐れられた。墓所は香川県坂出の白峯陵(しらみねのみささぎ)。陵墓は香川県坂出市青海町の白峯陵。

 

 神仏分離令(しんぶつぶんりれい)廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)

明治元年(1868年3月)、明治政府によって出された神仏習合を禁じた命令。これにより全国に廃仏毀釈(はいぶつきしやく)運動が起り神社と習合していた寺院の仏堂、仏像、仏具などの破壊・撤去された。

 

 神仏習合(しんぶつしゅうごう)神仏混淆(しんぶつこんこう)

日本古来の神と外来宗教である仏教とを結びつけた信仰のこと。すでに奈良時代から寺院に神が祀られたり、神社に神宮寺が建てられたりした。平安時代頃からは本格的な本地垂迹(ほんじすいじやく)説が流行し、中世になって両部神道などが成立した。

 

 神仏習合(しんぶつしゅうごう)神仏混淆(しんぶつこんこう)

日本古来の神と外来宗教である仏教とを結びつけた信仰のこと。すでに奈良時代から寺院に神が祀られたり、神社に神宮寺が建てられたりした。平安時代頃からは本格的な本地垂迹(ほんじすいじやく)説が流行し、中世になって両部神道などが成立した。

 

 大国主命(おおくにぬしのみこと)大己貴命・大穴牟遅神(おおなむちのみこと)

出雲神話の神。素戔嗚尊(すさのおのみこと)の子または孫です。少彦名神(すくなびこなのかみ)とともに、中つ国の経営を行っましたが、天照大神(あまてらすおおみかみ)の使者が来ると国土を献上してみずからは隠退しました。

大黒天と同一視されるようにもなりました。因幡(いなば)の白兎の神話は唱歌にも歌われています。

 

 鳥羽天皇(とばてんのう)

第74代の天皇、在位1107年7月19日~1123年1月28日。堀河天皇の第1皇子。崇徳・近衛・後白河の三代にわたって1129年から27年間、院政を行う。崇徳上皇と対立して後白河天皇を擁立、保元の乱の因となった。陵墓は京都府京都市伏見区竹田浄菩提院町の安楽寿院陵。

 

 鳥羽天皇(とばてんのう)

第74代の天皇、在位1107年7月19日~1123年1月28日。堀河天皇の第1皇子。崇徳・近衛・後白河の三代にわたって1129年から27年間、院政を行う。崇徳上皇と対立して後白河天皇を擁立、保元の乱の因となった。陵墓は京都府京都市伏見区竹田浄菩提院町の安楽寿院陵。

 

 後白河天皇(ごしらかわてんのう)

第77代の天皇、在位1155年7月24日~1158年8月11日。鳥羽天皇の第4皇子。即位の際、崇徳上皇と対立、保元の乱を生じた。二条天皇に譲位後、五代にわたって院政をおこない、平氏政権から鎌倉幕府権力の確立に至る変革期にあって朝廷権威の存続を巧みにはかった。1169年出家して法皇となり、造寺・造仏に尽くした。陵墓は京都府京都市東山区三十三間堂廻リの法住寺陵。

 

 保元の乱(ほげんのらん)

保元元年(1156年)京都に勃発した内乱。皇位継承に関する崇徳上皇と後白河天皇との対立に、摂関家の藤原頼長と忠通との家督争いが結びつき、上皇・頼長側は源為義・平忠正、後白河・忠通側は源義朝・平清盛らの武士団を招じ入れて戦い上皇方が敗北した。上皇は讃岐に流され、頼長は戦傷死した。この乱はのちの武家政権成立への端緒をなした。

 

 神仏習合(しんぶつしゅうごう)神仏混淆(しんぶつこんこう)

日本古来の神と外来宗教である仏教とを結びつけた信仰のこと。すでに奈良時代から寺院に神が祀られたり、神社に神宮寺が建てられたりした。平安時代頃からは本格的な本地垂迹(ほんじすいじやく)説が流行し、中世になって両部神道などが成立した。

 

 神仏分離令(しんぶつぶんりれい)廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)

明治元年(1868年3月)、明治政府によって出された神仏習合を禁じた命令。これにより全国に廃仏毀釈(はいぶつきしやく)運動が起り神社と習合していた寺院の仏堂、仏像、仏具などの破壊・撤去された。

 

 本地垂迹(ほんちすいじゃく)

菩薩や仏陀がかりに神の姿をとって垂迹するという説、神は権現と呼ばれるようになった。神の正体とされる仏を本地仏と言う。神々に付会される仏は、宗派、信仰、寺院、神社によって異なる。

 

 本地垂迹(ほんちすいじゃく)

菩薩や仏陀がかりに神の姿をとって垂迹するという説、神は権現と呼ばれるようになった。神の正体とされる仏を本地仏と言う。神々に付会される仏は、宗派、信仰、寺院、神社によって異なる。

 

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