宇佐神宮(宇佐八幡、宇佐八幡宮)

 寺社の種類:式内社(名神大)、豊前国一宮、官幣大社、勅祭社、別表神社
 創建の時期:神亀2年(725年)
 社殿の様式:八幡造
 所在地:大分県宇佐市
 訪問日:2011年6月3日

 

宇佐神宮は全国に4万4千社あまりある八幡神社の総本宮です。祭神は八幡大神応神天皇)、比売大神神功皇后の三神で、伊勢神宮に次ぐ第2宗廟として皇室からの崇敬を受けてきたところです。

イチイガシなどの照葉樹の原生林は社叢(しゃそう)の森と呼ばれ、広い境内には朱塗りの本殿や外宮、若宮社、春宮社を始め多くの摂社が祀られています。

宇佐神宮の大鳥居
厳つい顔の狛犬
厳つい顔の狛犬
漂泊の詩人、山頭火の歌碑

駐車場に車を停め参道を進むと厳つい顔をした狛犬が我々を出迎えてくれます。

その先には漂泊の詩人と言われる山頭火の歌碑がありました。明治から昭和にかけての詩人で西日本を中心にさすらいの旅の中で多くの句を作ったと言います。かって周防の国分寺でも山頭火の歌碑を見た記憶が残っています。

神武天皇上陸の地の碑文
寄藻川を渡る赤い神橋
黒男神社の社
春宮神社(とうぐうじんじゃ)の社
祓所(はらいど)
赤い鳥居
社叢(しゃそう)の森を登る参道
西大門

朱塗りの橋をわたるとイチイガシに覆われる参道は一ノ鳥居をくぐり西大門へ。桃山様式の絢爛な楼門をくぐると朱塗りの本殿がそびえていました。

本殿は勅使門である南大楼門を中心に八幡大神を祀る一之御殿、比売大神を祀るニ之御殿、神功皇后を祀る三之御殿が並んでいます。本殿の中には春日社や住吉社などの摂社も祀られていました。

西門をくぐるとお札の授与所
一之御殿
本殿の中には春日社などの摂社
南中楼門
三之御殿
三之御殿の脇には住吉社
本殿脇に宇佐神宮の由緒
西大門
関連記録・コース

 八幡大神(やはたのかみ・はちまんおかみ)誉田別命、品陀別命(ほんだわけのみこと)

日本で信仰される神で、清和源氏、桓武平氏など全国の武家から弓矢八幡として崇敬を集めました。誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、応神天皇と同一とされます。

また早くから神仏習合がなり、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)として神宮寺が祀られました。

 

 比売大神(ひめがみ)

特定の神の名前ではなく主祭神の妻や娘あるいは関係の深い女神を指す。

 

 神功皇后(じんぐうこうごう)氣長足姫尊・息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)

仲哀天皇の皇后、父は開化天皇の曾孫、母は新羅から但馬に来住したという天之日矛(あめのひぼこ)の玄孫たかぬかひめ。

三韓征伐の中心人物で仲哀天皇が熊襲を討つため九州に赴き筑紫の橿日宮で急死すると、妊娠中にもかかわらず武内宿禰とはかり新羅に遠征したとされています。

この遠征により百済と高句麗も日本に帰服ししました。皇后は大和に戻ってから応神天皇を皇太子に立てて約 70年間皇太子の摂政としてみずから政治をとったと言われています。

 

 八幡造(はちまんづくり)

神社本殿の建築形式の一つ。切妻造りの社殿二つを前後につなぎ両方の屋根が接する部分に樋(とい)を設けたもの。宇佐神宮石清水八幡宮の本殿などにみられる様式です。

 

 八幡大神(やはたのかみ・はちまんおかみ)誉田別命、品陀別命(ほんだわけのみこと)

日本で信仰される神で、清和源氏、桓武平氏など全国の武家から弓矢八幡として崇敬を集めました。誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、応神天皇と同一とされます。

また早くから神仏習合がなり、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)として神宮寺が祀られました。

 

 応神天皇(おうじんてんのう)譽田別尊(ほんだわけのみこと)八幡大神(やはたおおかみ)

第15代天皇(在位:270年1月1日~310年2月15日 )仲哀天皇の第4皇子、母は神功皇后。神功皇后が新羅へ渡ったときに身篭っていたことから胎中天皇などと呼ばれています。記紀には渡来人を用いて国家を発展させ、中世以降は軍神八幡神としても信奉されでいます。

大和朝廷の勢力が飛躍的に発展した時期で一説に中国の歴史書に記述のある倭の五王の一人、讃とする説があります。陵墓は大阪府羽曳野市誉田6丁目の恵我藻伏崗陵。

6世紀前半に在位したとされる第26代継体天皇以前の天皇については、第21代雄略天皇を別として実在の可能性が薄いという見解があります。

 

 比売大神(ひめがみ)

特定の神の名前ではなく主祭神の妻や娘あるいは関係の深い女神を指す。

 

 神功皇后(じんぐうこうごう)氣長足姫尊・息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)

仲哀天皇の皇后、父は開化天皇の曾孫、母は新羅から但馬に来住したという天之日矛(あめのひぼこ)の玄孫たかぬかひめ。

三韓征伐の中心人物で仲哀天皇が熊襲を討つため九州に赴き筑紫の橿日宮で急死すると、妊娠中にもかかわらず武内宿禰とはかり新羅に遠征したとされています。

この遠征により百済と高句麗も日本に帰服ししました。皇后は大和に戻ってから応神天皇を皇太子に立てて約 70年間皇太子の摂政としてみずから政治をとったと言われています。

 

 八幡大神(やはたのかみ・はちまんおかみ)誉田別命、品陀別命(ほんだわけのみこと)

日本で信仰される神で、清和源氏、桓武平氏など全国の武家から弓矢八幡として崇敬を集めました。誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、応神天皇と同一とされます。

また早くから神仏習合がなり、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)として神宮寺が祀られました。

 

 比売大神(ひめがみ)

特定の神の名前ではなく主祭神の妻や娘あるいは関係の深い女神を指す。

 

 神功皇后(じんぐうこうごう)氣長足姫尊・息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)

仲哀天皇の皇后、父は開化天皇の曾孫、母は新羅から但馬に来住したという天之日矛(あめのひぼこ)の玄孫たかぬかひめ。

三韓征伐の中心人物で仲哀天皇が熊襲を討つため九州に赴き筑紫の橿日宮で急死すると、妊娠中にもかかわらず武内宿禰とはかり新羅に遠征したとされています。

この遠征により百済と高句麗も日本に帰服ししました。皇后は大和に戻ってから応神天皇を皇太子に立てて約 70年間皇太子の摂政としてみずから政治をとったと言われています。

 

 和気清麻呂(わけきよまろ)

733~799年、奈良末・平安初期の廷臣。藤原仲麻呂の乱に功を立て輔治能真人(ふじののまひと)の姓を受けた。道鏡が皇位簒奪さんだつを企てると、宇佐八幡宮に使して神託を得これを妨げた。平安遷都を建議。

 

 道鏡(どうきょう)

?~772年、奈良時代の僧。称徳天皇の寵を受け太政大臣禅師に、次いで法王位に昇り政界に権勢をふるった。のち皇位に就こうとしたが和気清麻呂らの妨害にあい失敗。称徳天皇の死後失脚し、造下野国薬師寺別当に左遷されその地で没した。

 

 八幡大神(やはたのかみ・はちまんおかみ)誉田別命、品陀別命(ほんだわけのみこと)

日本で信仰される神で、清和源氏、桓武平氏など全国の武家から弓矢八幡として崇敬を集めました。誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、応神天皇と同一とされます。

また早くから神仏習合がなり、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)として神宮寺が祀られました。

 

 応神天皇(おうじんてんのう)譽田別尊(ほんだわけのみこと)八幡大神(やはたおおかみ)

第15代天皇(在位:270年1月1日~310年2月15日 )仲哀天皇の第4皇子、母は神功皇后。神功皇后が新羅へ渡ったときに身篭っていたことから胎中天皇などと呼ばれています。記紀には渡来人を用いて国家を発展させ、中世以降は軍神八幡神としても信奉されでいます。

大和朝廷の勢力が飛躍的に発展した時期で一説に中国の歴史書に記述のある倭の五王の一人、讃とする説があります。陵墓は大阪府羽曳野市誉田6丁目の恵我藻伏崗陵。

6世紀前半に在位したとされる第26代継体天皇以前の天皇については、第21代雄略天皇を別として実在の可能性が薄いという見解があります。

 

 神仏習合(しんぶつしゅうごう)神仏混淆(しんぶつこんこう)

日本古来の神と外来宗教である仏教とを結びつけた信仰のこと。すでに奈良時代から寺院に神が祀られたり、神社に神宮寺が建てられたりした。平安時代頃からは本格的な本地垂迹(ほんじすいじやく)説が流行し、中世になって両部神道などが成立した。

 

 八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)

八幡神に対して奉られた菩薩号。奈良時代に始る神仏習合から起った称号

 

 仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)足仲彦尊命・足仲津彦尊命(たらしなかつひこのみこと)

第14代天皇(在位:192年1月11日~200年2月6日)、日本武尊の第2子、母は垂仁天皇の皇女・両道入姫命(ふたじいりひめのみこと)、皇后は神功皇后

熊襲を討つため神功皇后とともに筑紫に行幸したとき、まず新羅を討つべしという神の託宣にそむいたため神の怒りに触れて戦陣で没したとされています。

 

 武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)

記紀によれば孝元天皇の子孫、日本最初の大臣です。神功皇后の新羅征伐に従軍し、景行、成務、仲哀、応神、仁徳の二百数十年間の天皇に仕えたと言います。蘇我、葛城、平群(へぐり)、巨勢(こせ)の4氏の祖とも言われています。

 

 八幡大神(やはたのかみ・はちまんおかみ)誉田別命、品陀別命(ほんだわけのみこと)

日本で信仰される神で、清和源氏、桓武平氏など全国の武家から弓矢八幡として崇敬を集めました。誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、応神天皇と同一とされます。

また早くから神仏習合がなり、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)として神宮寺が祀られました。

 

 応神天皇(おうじんてんのう)譽田別尊(ほんだわけのみこと)八幡大神(やはたおおかみ)

第15代天皇(在位:270年1月1日~310年2月15日 )仲哀天皇の第4皇子、母は神功皇后。神功皇后が新羅へ渡ったときに身篭っていたことから胎中天皇などと呼ばれています。記紀には渡来人を用いて国家を発展させ、中世以降は軍神八幡神としても信奉されでいます。

大和朝廷の勢力が飛躍的に発展した時期で一説に中国の歴史書に記述のある倭の五王の一人、讃とする説があります。陵墓は大阪府羽曳野市誉田6丁目の恵我藻伏崗陵。

6世紀前半に在位したとされる第26代継体天皇以前の天皇については、第21代雄略天皇を別として実在の可能性が薄いという見解があります。

 

 神仏習合(しんぶつしゅうごう)神仏混淆(しんぶつこんこう)

日本古来の神と外来宗教である仏教とを結びつけた信仰のこと。すでに奈良時代から寺院に神が祀られたり、神社に神宮寺が建てられたりした。平安時代頃からは本格的な本地垂迹(ほんじすいじやく)説が流行し、中世になって両部神道などが成立した。

 

 八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)

八幡神に対して奉られた菩薩号。奈良時代に始る神仏習合から起った称号

 

 神功皇后(じんぐうこうごう)氣長足姫尊・息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)

仲哀天皇の皇后、父は開化天皇の曾孫、母は新羅から但馬に来住したという天之日矛(あめのひぼこ)の玄孫たかぬかひめ。

三韓征伐の中心人物で仲哀天皇が熊襲を討つため九州に赴き筑紫の橿日宮で急死すると、妊娠中にもかかわらず武内宿禰とはかり新羅に遠征したとされています。

この遠征により百済と高句麗も日本に帰服ししました。皇后は大和に戻ってから応神天皇を皇太子に立てて約 70年間皇太子の摂政としてみずから政治をとったと言われています。

 

 継体天皇(けいたいてんのう)・男大迹尊(おおどのみこと)

第26代天皇(在位:507年2月4日~531年2月7日)武烈天皇没後嗣子がなく、大伴金村・物部麁鹿火(あらかび)らに越前から迎えられて河内で即位したと伝えられる。 このころ朝鮮半島における日本の勢力は衰え、筑紫では磐井(いわい)の乱が起こった。また仏教も渡来人によって伝えられ普及し始めた。陵墓は大阪府茨木市太田3丁目の三嶋藍野陵。

 

 雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)・大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけのみこと)

第21代天皇(在位:456年11月13日~479年8月7日)允恭天皇(いんぎようてんのう)第五皇子。宋書に見える倭王武とされる。雄略天皇の登場により大王による専制支配が確立され、大王を中心とする中央集権体制が始まったとする見方がある。考古学的に実在がほぼ確定している最初の天皇とされる。陵墓は大阪府羽曳野市島泉8丁目の丹比高鷲原陵。

 

 仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)足仲彦尊命・足仲津彦尊命(たらしなかつひこのみこと)

第14代天皇(在位:192年1月11日~200年2月6日)、日本武尊の第2子、母は垂仁天皇の皇女・両道入姫命(ふたじいりひめのみこと)、皇后は神功皇后

熊襲を討つため神功皇后とともに筑紫に行幸したとき、まず新羅を討つべしという神の託宣にそむいたため神の怒りに触れて戦陣で没したとされています。

 

 武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)

記紀によれば孝元天皇の子孫、日本最初の大臣です。神功皇后の新羅征伐に従軍し、景行、成務、仲哀、応神、仁徳の二百数十年間の天皇に仕えたと言います。蘇我、葛城、平群(へぐり)、巨勢(こせ)の4氏の祖とも言われています。

 

 八幡大神(やはたのかみ・はちまんおかみ)誉田別命、品陀別命(ほんだわけのみこと)

日本で信仰される神で、清和源氏、桓武平氏など全国の武家から弓矢八幡として崇敬を集めました。誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、応神天皇と同一とされます。

また早くから神仏習合がなり、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)として神宮寺が祀られました。

 

 応神天皇(おうじんてんのう)譽田別尊(ほんだわけのみこと)八幡大神(やはたおおかみ)

第15代天皇(在位:270年1月1日~310年2月15日 )仲哀天皇の第4皇子、母は神功皇后。神功皇后が新羅へ渡ったときに身篭っていたことから胎中天皇などと呼ばれています。記紀には渡来人を用いて国家を発展させ、中世以降は軍神八幡神としても信奉されでいます。

大和朝廷の勢力が飛躍的に発展した時期で一説に中国の歴史書に記述のある倭の五王の一人、讃とする説があります。陵墓は大阪府羽曳野市誉田6丁目の恵我藻伏崗陵。

6世紀前半に在位したとされる第26代継体天皇以前の天皇については、第21代雄略天皇を別として実在の可能性が薄いという見解があります。

 

 神仏習合(しんぶつしゅうごう)神仏混淆(しんぶつこんこう)

日本古来の神と外来宗教である仏教とを結びつけた信仰のこと。すでに奈良時代から寺院に神が祀られたり、神社に神宮寺が建てられたりした。平安時代頃からは本格的な本地垂迹(ほんじすいじやく)説が流行し、中世になって両部神道などが成立した。

 

 八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)

八幡神に対して奉られた菩薩号。奈良時代に始る神仏習合から起った称号

 

 仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)足仲彦尊命・足仲津彦尊命(たらしなかつひこのみこと)

第14代天皇(在位:192年1月11日~200年2月6日)、日本武尊の第2子、母は垂仁天皇の皇女・両道入姫命(ふたじいりひめのみこと)、皇后は神功皇后

熊襲を討つため神功皇后とともに筑紫に行幸したとき、まず新羅を討つべしという神の託宣にそむいたため神の怒りに触れて戦陣で没したとされています。

 

 武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)

記紀によれば孝元天皇の子孫、日本最初の大臣です。神功皇后の新羅征伐に従軍し、景行、成務、仲哀、応神、仁徳の二百数十年間の天皇に仕えたと言います。蘇我、葛城、平群(へぐり)、巨勢(こせ)の4氏の祖とも言われています。

 

 道鏡(どうきょう)

?~772年、奈良時代の僧。称徳天皇の寵を受け太政大臣禅師に、次いで法王位に昇り政界に権勢をふるった。のち皇位に就こうとしたが和気清麻呂らの妨害にあい失敗。称徳天皇の死後失脚し、造下野国薬師寺別当に左遷されその地で没した。

 

 称徳天皇(しょうとくてんのう)

第48代天皇(在位:764年10月9日~770年8月4日)女帝。天平宝字8年孝謙上皇は藤原仲麻呂の乱を機に淳仁天皇(じゅんにんてんのう)を廃して重祚。仏教に帰依して道鏡を信任重用し太政大臣禅師から法王と天皇につぐ権力と処遇をあたえた。陵墓は奈良県奈良市山陵町の高野陵。

 

 和気清麻呂(わけきよまろ)

733~799年、奈良末・平安初期の廷臣。藤原仲麻呂の乱に功を立て輔治能真人(ふじののまひと)の姓を受けた。道鏡が皇位簒奪さんだつを企てると、宇佐八幡宮に使して神託を得これを妨げた。平安遷都を建議。

 

 称徳天皇(しょうとくてんのう)

第48代天皇(在位:764年10月9日~770年8月4日)女帝。天平宝字8年孝謙上皇は藤原仲麻呂の乱を機に淳仁天皇(じゅんにんてんのう)を廃して重祚。仏教に帰依して道鏡を信任重用し太政大臣禅師から法王と天皇につぐ権力と処遇をあたえた。陵墓は奈良県奈良市山陵町の高野陵。

 

阿波国・一宮神社 2011.5.24安芸国・厳島神社 2006.11.8伊予国・大山祇神社 2017.9.28讃岐国・田村神社 2017.9.26周防国・玉祖神社 2016.9.1出雲国・出雲大社 2006.11.5石見国・物部神社 2016.8.30長門国・住吉神社 2016.9.1土佐国・土佐神社 2011.5.27伊豆国・三嶋大社 2015.11.3駿河国・富士山本宮浅間大社 2015.11.3信濃国・諏訪大社上社前宮 2014.7.27信濃国・諏訪大社上社本宮 2014.7.27信濃国・諏訪大社下社秋宮 2014.7.27信濃国・諏訪大社下社春宮 2014.7.27蝦夷国・北海道神宮 2020.10.21石清水八幡宮 2008.5.2小八幡八幡神社 2023.5.5本村八幡神社 2023.5.3六郷神社 2023.4.14御田八幡神社 2023.4.11下山八幡宮 2022.9.21若宮八幡宮 2022.5.4富岡八幡宮 2022.1.30御嶽八幡神社 2020.1.11伊佐爾波神社 2017.9.27荒田八幡宮 2017.10.9神楽坂若宮八幡宮 2016.1.9街山八幡社 2016.2.7武田八幡宮 2016.2.11磯部八幡宮 2016.4.10亀山八幡宮 2016.9.1日本西門鎮守八幡宮 2016.9.1遠石八幡宮 2016.9.1鶴ヶ浜八幡神社 2015.2.1遠野郷八幡宮 2015.4.30大崎八幡宮 2015.5.1鶴嶺八幡宮 2015.6.4増威八幡社 2015.8.20冨塚八幡宮 2014.1.2舞岡八幡宮 2014.1.21亀岡八幡宮 2014.1.23金沢八幡神社 2014.2.7平塚八幡宮 2014.2.23篠塚八幡社 2014.8.31鶴岡八幡宮 2013.12.1千栗八幡宮 2010.3.20手向山八幡宮 2009.2.22
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