岡山城(烏城、金烏城) 


 城郭の構造:梯郭式平山城
 築城の時期:正平年間(1346~1369年)名和氏の一族上神高直が築城、その後宇喜多秀家小早川秀秋、池田忠雄が改修
 廃城の時期:明治6年(1873年)
 主な城主:宇喜多氏、小早川氏、池田氏
 所在地:岡山県岡山市丸の内
 訪問日:2011年5月28日

 

岡山城は烏城(うじょう)、金烏城(きんうじょう)とも呼ばれる平山城です。戦国時代の武将、宇喜多氏の居城で、関ヶ原の戦い以降は東軍に与した小早川氏が入城しました。小早川氏が断絶になると池田氏が入城して整備拡充が行われました。

明治の廃城令で楼門の多くは取り壊され、太平洋戦争の空襲で天守閣などが焼失しました。戦後、コンクリート造りの天守閣、不明門、廊下門、塀などが再建されています。

内下馬門跡に烏城公園の石碑
大きな石を積み重ねた石垣
見上げる石垣
見上げる石垣

そぼ降る雨の中、掘りの脇を通り城内に入ると大きな不明門です。ここを入ると本丸でその先に黒い壁に包まれた天守閣がそびえていました。天守閣の中は宇喜多氏、小早川氏などの資料を展示する資料館になっています。資料館の中には八丈島に流された宇喜多秀家にまつわるビデオも上映されていました。

石段を登って不明門へ
不明門をくぐります
天守閣の礎石
コンクリート造りの天守閣
天守閣の中は資料館
天守閣から眺める後楽園

岡山城の石垣は野面積み切り込みハギ打ち込みハギと3つの積み方を見ることができます。宇喜多氏が構築した石垣は野面積み関ヶ原の戦い以降、小早川氏、池田氏が修復、拡充した石垣は打ち込みハギなど新しい技法を取り入れたようです。高知城などに比べ技術的にも高度な築城が行われていたようです。

表書院跡
大納戸櫓跡 から眺める城内
大納戸櫓跡 から眺める城内
石垣の上に不明門

 

関連記録・コース

 宇喜多秀家(うきたひでいえ)

1573~1655年、安土桃山時代の武将。豊臣秀吉に仕え、四国・九州・小田原征討で軍功をあげる。文禄・慶長の役に参戦、五大老の一人となった。関ヶ原の戦いに敗れ八丈島に流されて没した。

 

 小早川秀秋(こばやかわひであき)

1582~1602年、桃山時代の武将。豊臣秀吉の妻高台院の兄木下家定の子。秀吉の養子、のち小早川隆景の養子。慶長の役の総大将。関ヶ原の戦いでは東軍に通じ徳川方勝利の一因となる。

 

 関ヶ原の戦

慶長5年(1600年)関ヶ原で石田三成らの西軍と徳川家康らの東軍とが天下を争った戦い。小早川秀秋の寝返りにより東軍が大勝した。石田三成らは処刑され豊臣秀頼は60万石の大名に転落した。これにより徳川氏の覇権が確立した。

 

 廃城令(はいじょうれい)

明治6年(1873年)明治政府において太政官から陸軍省に発せられた太政官達全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方(ぜんこくじょうかくそんぱいのしょぶんならびにへいえいちとうせんていかた)、多くの城郭や武家地などは収公され官公庁用地として開発された。軍事施設として利用するか廃城となった城もある。

 

 宇喜多秀家(うきたひでいえ)

1573~1655年、安土桃山時代の武将。豊臣秀吉に仕え、四国・九州・小田原征討で軍功をあげる。文禄・慶長の役に参戦、五大老の一人となった。関ヶ原の戦いに敗れ八丈島に流されて没した。

 

 野面積み(のづらづみ)

自然石をそのまま積み上げる方法である。技術的に初期の石積法で鎌倉時代末期に現れ、本格的に用いられたのは戦国時代である。

 

 切込みハギ(きりこみはぎ)

方形に整形した石材を密着させ積み上げる方法である。慶長5年(1600年)以降、隅石の加工から徐々に平石にまでわたるようになり、江戸時代初期(元和期)以降に多用されるようになった。石材同士が密着しているので排水できないため排水口が設けられる。

 

 打ち込みハギ(うちこみはぎ)

表面に出る石の角や面をたたき、平たくし石同士の接合面に隙間を減らして積み上げる方法である。関ヶ原の戦い以後この手法が盛んに用いられた。野面積みより高く急な勾配が可能になる。

 

 野面積み(のづらづみ)

自然石をそのまま積み上げる方法である。技術的に初期の石積法で鎌倉時代末期に現れ、本格的に用いられたのは戦国時代である。

 

 関ヶ原の戦

慶長5年(1600年)関ヶ原で石田三成らの西軍と徳川家康らの東軍とが天下を争った戦い。小早川秀秋の寝返りにより東軍が大勝した。石田三成らは処刑され豊臣秀頼は60万石の大名に転落した。これにより徳川氏の覇権が確立した。

 

 打ち込みハギ(うちこみはぎ)

表面に出る石の角や面をたたき、平たくし石同士の接合面に隙間を減らして積み上げる方法である。関ヶ原の戦い以後この手法が盛んに用いられた。野面積みより高く急な勾配が可能になる。

 

 豊臣秀吉(とよとみひでよし)

1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀・柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。

天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。

 

 関ヶ原の戦

慶長5年(1600年)関ヶ原で石田三成らの西軍と徳川家康らの東軍とが天下を争った戦い。小早川秀秋の寝返りにより東軍が大勝した。石田三成らは処刑され豊臣秀頼は60万石の大名に転落した。これにより徳川氏の覇権が確立した。

 

 豊臣秀吉(とよとみひでよし)

1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀・柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。

天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。

 

 関ヶ原の戦

慶長5年(1600年)関ヶ原で石田三成らの西軍と徳川家康らの東軍とが天下を争った戦い。小早川秀秋の寝返りにより東軍が大勝した。石田三成らは処刑され豊臣秀頼は60万石の大名に転落した。これにより徳川氏の覇権が確立した。

 

 石田三成(いしだみつなり)

1560~1600年、安土桃山時代の武将。豊臣秀吉に重用され、五奉行の一人として太閤検地などに活躍。秀吉の死後、遺子秀頼を擁ようして徳川家康と対立、関ヶ原の戦いに敗れ京で斬首された。

 

 徳川家康(とくがわいえやす)東照大権現(とうしょうだいごんげん)

1543~1616年、江戸幕府初代将軍。松平広忠の長男。織田信長と結んで駿河を、豊臣秀吉と和して関東を支配。豊臣秀吉の死後石田三成関ヶ原の戦いに破り、慶長8年(1603年)征夷大将軍となって江戸に幕府を開いた。武家諸法度などを定めて幕政の基礎を築いた。

 

 豊臣秀頼(とよとみひでより)

1593~1615年、安土桃山・江戸前期の大名。大坂城主。豊臣秀吉の次男。徳川家康の将軍就任に伴い一大名となる。方広寺鐘銘事件を端に徳川家との間に大坂冬の陣を起こす。一旦講和するが大坂夏の陣に敗れた。

 

 豊臣秀吉(とよとみひでよし)

1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀・柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。

天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。

 

 関ヶ原の戦

慶長5年(1600年)関ヶ原で石田三成らの西軍と徳川家康らの東軍とが天下を争った戦い。小早川秀秋の寝返りにより東軍が大勝した。石田三成らは処刑され豊臣秀頼は60万石の大名に転落した。これにより徳川氏の覇権が確立した。

 

 石田三成(いしだみつなり)

1560~1600年、安土桃山時代の武将。豊臣秀吉に重用され、五奉行の一人として太閤検地などに活躍。秀吉の死後、遺子秀頼を擁ようして徳川家康と対立、関ヶ原の戦いに敗れ京で斬首された。

 

 徳川家康(とくがわいえやす)東照大権現(とうしょうだいごんげん)

1543~1616年、江戸幕府初代将軍。松平広忠の長男。織田信長と結んで駿河を、豊臣秀吉と和して関東を支配。豊臣秀吉の死後石田三成関ヶ原の戦いに破り、慶長8年(1603年)征夷大将軍となって江戸に幕府を開いた。武家諸法度などを定めて幕政の基礎を築いた。

 

 豊臣秀頼(とよとみひでより)

1593~1615年、安土桃山・江戸前期の大名。大坂城主。豊臣秀吉の次男。徳川家康の将軍就任に伴い一大名となる。方広寺鐘銘事件を端に徳川家との間に大坂冬の陣を起こす。一旦講和するが大坂夏の陣に敗れた。

 

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