西国観音霊場30番 竹生島宝厳寺(ほうごんじ) 


 寺社の種類:真言宗豊山派のお寺
 本尊:弁才天千手観音(観音堂)
 創建:(伝)神亀元年(724年)、開基:(伝)行基聖武天皇(勅願)
 所在地:滋賀県長浜市早崎町1664
 訪問日:2007年5月12日

 

宝厳寺は行基により開山された真言宗の古刹で本尊の弁財天は厳島、江島とともに日本三大弁財天に数えられています。また京都三高の寮歌にも「古き伝えの竹生島・・」と謡われたところです。

長浜から出発する観光船
観光船から眺める竹生島
竹生島の案内図
竹生島弁財天

長浜から観光船で竹生島に向います。案内のビデオを聞きながらおよそ30分。目の前に宝厳寺の赤い堂宇が見えてくると竹生島の桟橋です。

数件の土産物屋の脇を抜け、急な石の階段を登って行くと正面に大きな本堂が建っていました。本堂は弁財天堂とも呼ばれ、行基が刻ん弁だと言う財天像が祀られています。

竹生島弁財天
竹生島弁財天
宝厳寺の本堂
宝厳寺の三重塔

本堂に参拝したのち境内を散策。朱塗りの三重塔から石段を下って行くと左手に古い観音堂が建っています。観音堂の正面には古い彫刻をめぐらした唐門。中に入ると千手観音が祀られていました。

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宝厳寺の観音堂
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宝厳寺の観音堂
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観音大菩薩の赤い提灯
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都久夫須麻神社に向かう舟廊下

ここから奥に入ると舟廊下と言われる回廊があります。豊臣秀吉の御座舟利用したものとか。長い歴史を今に伝える建物のようです。

舟廊下を渡ると都久夫須麻神社の神殿です。宮島などとともに日本三大弁財天の神社と言われ、左手には弁財天像も建っています。正面には琵琶湖に住む竜を祭ったという祭壇が建っていました。

ここにはカワラケ投げがあります。カワラケに願いをしたため湖に向かって投げ、鳥居をくぐると願いが叶うとか。鳥居の周辺にはたくさんのかわらけが砕け散っていました。

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都久夫須麻神社の神殿
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カワラケ投げの鳥居
都久夫須麻神社
都久夫須麻神社

ここ竹生島はカワウの営巣地とか。NHKのドキュメントで放送していた記憶がありますが、おびただしいカワウのフンによって竹生島の樹木は枯れ始め、島全体が悪臭に覆われているとか。

都久夫須麻神社の右手の道をしばらく進むと鳥居の建つ湖畔にたどり着きます。急斜面の木の上には数羽のカワウがとまっています。

都久夫須麻神社の神殿
カワウの営巣地
参道の観音像
唐門

カラスやウミネコと同じように繁殖力の強いカワウは、竹生島に生息していたサギなどを追い出し、アユなどの漁業にも影響を与えているとか。人間が自然にいたずらに介入することは自然破壊につながることでしょうが、自然の保護ということからも考えさせられるものです。

関連記録・コース

 真言宗豊山派(しんごんしゅうふざんは)

真言宗の新義真言の一派。総本山は奈良桜井市の長谷寺。真言宗智山派と同じく覚鑁(かくばん)を開祖とする。織田信長のため根来寺を追われた専誉(せんよ)が一派を形成した。

 

 弁才天・弁財天(べんざいてん)

インドの河神で音楽・智恵・財物の神として吉祥天とともに広く信仰された女神。

仏教に取り入れられ吉祥天と同一視されるようになった。八本の手で各種の武具を持つ像もあるが、鎌倉時代には二手で琵琶を持つ女神像が一般化した。日本では七福神の一人として民衆の信仰を集めてきた。

 

 千手観音(せんじゅかんのん)・千手千眼観自在菩薩

六観音の一つ。限りない慈悲を表す菩薩で、千の慈悲の眼と千の慈悲の手をそなえ、生ある者を救うという。二七面四二臂の像が一般的。千手千眼観世音。千眼千臂観世音。

 

 西国三十三観音霊場・西国三十三ヶ所

近畿地方を中心に散在する33ケ所の観音霊場。花山法皇の巡礼を創始とすると伝えられる。室町時代から民間人の参拝が増え、江戸時代に盛んとなった。

 

 行基(ぎょうき)

奈良時代の僧、668~749年。百済系の渡来人。法相宗を学び諸国を巡って布教た。民衆とともに道路・堤防・橋や寺院の建設にあたったが僧尼令違反として禁止された。後に聖武天皇の帰依を受け、東大寺・国分寺建立に協力。日本最初の大僧正の位を授けられた。

 

 聖武天皇(しょうむてんのう)

第45代天皇(在位:724年2月4日~749年7月2日)文武天皇の第一皇子。光明皇后とともに仏教を厚く信仰。全国に国分寺・国分尼寺を置き東大寺を建立して大仏を造立した。陵墓は奈良県奈良市法蓮町の佐保山南陵。

 

 行基(ぎょうき)

奈良時代の僧、668~749年。百済系の渡来人。法相宗を学び諸国を巡って布教た。民衆とともに道路・堤防・橋や寺院の建設にあたったが僧尼令違反として禁止された。後に聖武天皇の帰依を受け、東大寺・国分寺建立に協力。日本最初の大僧正の位を授けられた。

 

 弁才天・弁財天(べんざいてん)

インドの河神で音楽・智恵・財物の神として吉祥天とともに広く信仰された女神。

仏教に取り入れられ吉祥天と同一視されるようになった。八本の手で各種の武具を持つ像もあるが、鎌倉時代には二手で琵琶を持つ女神像が一般化した。日本では七福神の一人として民衆の信仰を集めてきた。

 

 豊臣秀吉(とよとみひでよし)

1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。

天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。

 

 真言宗智山派(しんごんしゅうちざんは)

真言宗の新義真言の一派。宗祖覚鑁(かくばん)は真言宗の教義に念仏を加味し、高野山の大伝法院にあって布教に努めた。その教勢が高野本山をしのいだため紛争を生じ1140年円明寺を開いて分立した。

 

 覚鑁(かくばん)・興教大師

平安後期の真言宗の僧(1095~1144年)高野山に大伝法院、密厳院などを建立し、金剛峰寺とともに座主を兼ねたが一山の反対にあい根来に移った。新義真言宗の開祖、伝法院流の祖。

 

 専誉(せんよ)

真言宗豊山派の祖。紀伊根来寺の玄誉(げんよ)、頼玄(らいげん)に師事。天正13年豊臣秀吉の根来攻めにあい高野山にのがれる。15年豊臣秀長にまねかれ大和長谷寺にはいりった。

 

 吉祥天(きちじょうてん)

インド神話の神でビシュヌ神の妃とされた。仏教では徳叉迦(とくさか)を父に、鬼子母神(きしもじん)を母に生まれ、毘沙門天の妃とされる。仏法を護持する天女。天衣宝冠を着け左手に如意宝珠を捧げ持つ。

 

 六観音(ろくかんのん)

六観音は六道輪廻の思想に基づき、六種の観音が六道に迷う衆生を救うという考えから生まれたもの。地獄道 - 聖観音、餓鬼道 - 千手観音、畜生道 - 馬頭観音、修羅道 - 十一面観音、人道 - 准胝観音、天道 - 如意輪観音とされる。天台系では准胝観音の代わりに不空羂索観音を加えて六観音とする。

 

 聖武天皇(しょうむてんのう)

第45代天皇(在位:724年2月4日~749年7月2日)文武天皇の第一皇子。光明皇后とともに仏教を厚く信仰。全国に国分寺・国分尼寺を置き東大寺を建立して大仏を造立した。陵墓は奈良県奈良市法蓮町の佐保山南陵。

 

 文武天皇(もんむてんのう)

第42代天皇(在位:697年8月1日~707年6月15日)天武天皇・持統天皇の孫。草壁皇子の第一皇子。大宝律令を制定。万葉集、懐風藻に入集した。陵墓は奈良県高市郡明日香村栗原の檜隈安古岡上陵。

 

 聖武天皇(しょうむてんのう)

第45代天皇(在位:724年2月4日~749年7月2日)文武天皇の第一皇子。光明皇后とともに仏教を厚く信仰。全国に国分寺・国分尼寺を置き東大寺を建立して大仏を造立した。陵墓は奈良県奈良市法蓮町の佐保山南陵。

 

 吉祥天(きちじょうてん)

インド神話の神でビシュヌ神の妃とされた。仏教では徳叉迦(とくさか)を父に、鬼子母神(きしもじん)を母に生まれ、毘沙門天の妃とされる。仏法を護持する天女。天衣宝冠を着け左手に如意宝珠を捧げ持つ。

 

 織田信長(おだのぶなが)

1534~1582年、戦国・安土桃山時代の武将。織田信秀の子。桶狭間に今川義元を討って尾張一国を統一。京都に上って比叡山を焼き、浅井氏・朝倉氏を破り、将軍足利義昭(あしかがよしあき)を追放、武田勝頼を三河の長篠に破った。中国出陣の途中、京都本能寺で明智光秀の謀反にあった。

 

 豊臣秀吉(とよとみひでよし)

1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。

天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。

 

 明智光秀(あけちみつひで)

1528~1582年、戦国・安土桃山時代の武将。美濃の生まれ。織田信長に重用されたが、1582年6月2日、京都本能寺に信長を襲い自害させた。山崎の戦いで豊臣秀吉に敗れ逃走中土民に殺された。

 

 柴田勝家(しばたかついえ)

1522~1583年、安土桃山時代の武将。織田信長の臣。越前北ノ庄に拠って北陸を支配。本能寺の変後、豊臣秀吉と対立、賤ヶ岳の戦いに敗れ北ノ庄で自害した。

 

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