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あの頂を越えて

神社参拝

~神社を訪ねて~

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~神社参拝:神社を訪ねて~

 古代の歴史

 

 物部氏(もののべし)

古代の氏族。姓は連(むらじ)。物部の伴造(とものみやつこ)として軍事・刑罰を担当、4〜5世紀以後大伴氏とともに大連を世襲して勢力をふるった。仏教受容に反対して蘇我氏と対立、守屋(もりや)が敗れて以後衰退する。

 

 大伴氏(おおともし)

古代の豪族。5〜6世紀に物部氏とともに大和朝廷の軍事力を担う有力な氏族となった。壬申の乱(じんしんのらん)に戦功があり、奈良時代にも名門貴族として朝政に加わったが次第に藤原氏におされた。

 

 蘇我氏(そがし)

古代の豪族。武内宿禰(たけのうちのすくね)を祖とするというが未詳。大和朝廷の重臣として仏教など大陸文化の導入に貢献したが、大化元年(645年)蝦夷(えみし)、入鹿(いるか)父子は中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)らに滅ぼされた宗家は滅亡した。

 

 藤原氏(ふじわらし)

古代から明治維新まで朝廷の中枢を占めてきた貴族。中臣鎌足(なかとみのかまたり)が大化改新に尽くした功で天智天皇から藤原姓を賜ったことに始まる。鎌足の子不比等(ふひと)は律令体制の推進に努め、娘宮子(みやこ)を文武天皇夫人に、光明子(こうみょうし)を人臣として初めて皇后に立て外戚として権力を振るった。

 

 壬申の乱(じんしんのらん)

672年、壬申の年、天智天皇の子大友皇子(おおとものおうじ)と同天皇の実弟大海人皇子(おおあまのおうじ)との間で起こった皇位継承をめぐる争い。一か月余の戦いの結果、大友皇子は自害し、大海人皇子が即位して天武天皇となり、以後大化の改新が一層強力に推進された。

 

 菅原道真(すがわらのみちざね)

平安前期の公卿、学者、文人。845年〜903年。宇多天皇の信任が厚く、藤原氏を押さえるため藤原基経の死後蔵人頭(くろうどのとう)に抜擢されましたた。延喜元年(901年)藤原時平の中傷により大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷され配所で没しました。

のちに天満天神として崇拝されました。

 

 貞観地震(じょうがんじしん)

貞観11年5月26日(869年7月9月13日)、日本の陸奥国東方沖を震源域として発生したと推定されている巨大地震で少なくともマグニチュード8.3以上であったとされる。地震に伴って発生した津波により甚大な被害が発生した。

 

 源義家(みなもとよしいえ)・八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)

平安時代後期の武将、八幡太郎義家として知られる。比叡山等の強訴の頻発に際しその鎮圧や白河天皇の行幸の護衛に活躍する。前九年の役で父を助けて安倍氏を討ち後に陸奥国守となった。清原氏の内紛に介入して後三年の役を起こした。東国における源氏勢力の基盤をつくった。

 

 桓武平氏(かんむへいし)

平安時代のはじめに平(たいら)姓を与えられて臣籍に入った皇孫諸流のうち桓武天皇の子孫の氏の称。葛原親王の孫高望王(たかもちおう)が東国に下向、その子孫は坂東八平氏として栄え、国香・貞盛・維衡・将門らが出た。維衡流の伊勢平氏から出た清盛は、武家政権を樹立した。

 

 清和源氏(せいわげんじ)

平安時代、清和天皇の諸皇子に源姓を賜ったが、第六皇子貞純親王の皇子経基王(つねもとおう)の系統が代表的存在。王の子満仲は摂津多田荘に土着、さらにその子頼光は摂関家と結んで勢力を伸ばした。頼義・義家は関東に進出、頼朝は鎌倉幕府を開くなど子孫は各地に繁栄。佐竹・武田・平賀・新田・足利の諸氏はいずれもこの流れに入る。

 

 前九年の役(ぜんくねんのえき)

平安末期の1051年から1062年の12年、陸奥の豪族安倍頼時・貞任(さだとう)・宗任(むねとうら)の反乱を源頼義・義家らが平定した戦い。後三年の役とともに源氏が東国に勢力を築く契機となった。

 

 後三年の役(ごさんねんのえき)

平安後期の1083年から1087年、奥羽の豪族清原氏が起こした戦乱。清原氏内部の相続争いが発端であったが、陸奥守として下向した源義家が清原清衡(藤原清衡)とともに、清原家衡・武衡を金沢柵(かねざわのさく)に下して平定した。これにより清衡は平泉における藤原三代の基をつくり、義家は東国に源氏の勢力基盤を築いた。

 

 平治の乱(へいじのらん)

保元の乱(ほげんのらん)の後、平治1年(1159年)12月、京都に勃発した内乱。後白河上皇の近臣間の暗闘が源平武士団の対立に結びつき、藤原信頼・源義朝による上皇幽閉、藤原通憲(信西)殺害という事件に発展した。しかし平清盛の計略によって上皇は脱出し、激しい合戦のすえ源氏方は敗北した。これ以後、平氏の政権が成立した。

 

 保元の乱(ほげんのらん)

保元元年(1156年)京都に勃発した内乱。皇位継承に関する崇徳上皇と後白河天皇との対立に、摂関家の藤原頼長と忠通との家督争いが結びつき、上皇・頼長側は源為義・平忠正、後白河・忠通側は源義朝平清盛らの武士団を招じ入れて戦い上皇方が敗北した。上皇は讃岐に流され、頼長は戦傷死した。この乱はのちの武家政権成立への端緒をなした。

 

 貞観大噴火(じょうがんだいふんか)

平安時代初期の貞観6年から8年(864年から866年)にかけて発生した富士山の大規模な噴火活動。大規模な割れ目噴火で膨大な量の溶岩を噴出させ北麓にあった?の海(せのうみ)の大半を埋没させた。北西山麓を広く覆い尽くした溶岩流はのちに青木ヶ原樹海となった。

 

 延暦大噴火(えんれきだいふんか)

平安時代初期の延暦19年から21年(800年から802年)にかけて発生した富士山の大規模な噴火活動。東側斜面に側火口の西小富士を形成した。大量の降下火山灰により当時の東海道だった足柄路が通行不能となっている。

 

 宝永大噴火(ほうえいだいふんか)

江戸時代中期の宝永4年(1707年)に起きた富士山の噴火である。宝永火口から噴出した大量の火山灰は関東一円に降り注ぎ、酒匂川が決壊したり農作物に多大な影響をもたらした。100 km離れた江戸にも火山灰が積もった。噴火が始まる前にはマグニチュード9クラスと推定される宝永地震が起こった。

 

 源頼義(みなもとよりよし)

平安時代中期の武将、河内源氏初代棟梁、源頼信の嫡男で河内源氏2代目棟梁。子の義家とともに前九年の役を鎮定、東国における源氏の勢力を強化。

 

 源義光(みなもとよりよし)・(しんらさぶろうよしみつ)新羅三郎義光

平安時代後期の武将、源頼義の三男。兄に源義家(八幡太郎)や源義綱(賀茂次郎)がいる。後三年の役に義家の苦戦を聞き、官許を得ずに救援に赴き解官された。のち東国を経営、武田氏・佐竹氏・小笠原氏などの祖となった。

 

 源頼朝(みなもとよりとも)

1147年〜1199年 鎌倉幕府初代将軍。義朝の三男。平治の乱のち伊豆蛭ヶ小島に配流される。1180年以仁王もちひとおうの平氏追討の令旨に応じ挙兵。石橋山の戦いに敗れ安房に逃げたが東国武士の来援を得て関東を制し鎌倉にはいって根拠地とした。平維盛の追討軍を富士川に破り弟の範頼・義経を西上させ、85年壇ノ浦で平氏を討滅し全国を平定。全国に守護・地頭を設置、武家政治の基礎を確立。

 

 平景正(たいらのかげまさ)鎌倉権五郎景政(かまくらごんごろうかげまさ)

平安末期の武士。源義家に属して後三年の役に従軍、右眼を射られながら相手を討ち取った。大庭氏の祖。

 

 国造(くにのみやつこ)

国造は大和朝廷の行政機構において地方を治める官職。軍事権、裁判権などを持つその地方の支配者であった。この国の範囲は令制国整備前の行政区分であるためはっきりしない。地域の豪族が支配した領域が国として扱われたと考えられる。

 

 師長、磯長(しなが)

酒匂川流域と中村川流域、神奈川県西部にまたがる領域。相模の国は師長国造と相武国造に分かれていたが7世紀には相模国として統一されたとされている。

 

 相武(さがむ)

伊勢津彦の子孫が成務朝期に相武国造に任じられたという。古事記に相武国造が倭建命を焼き殺そうとしたが草薙剣で難を逃れ逆に攻め滅ぼされた記述がある。

 

 大化の改新(たいかのかいしん)

大化元年(645年)中大兄皇子(のちの天智天皇)・中臣鎌足らが蘇我氏を打倒して始めた古代政治史上の一大改革。中大兄皇子は孝徳天皇を即位させ自らは皇太子として実権を握った。公地公民制、地方行政組織の確立、班田収授法、租庸調の統一的税制の実施を中心とした改新の詔みことのりを発布した。氏姓制度による皇族・豪族の支配を否定して中央集権的支配の実現へと向かった。

 

 平将門(たいらのまさかど)

?〜940年、平安中期の武将。上洛して藤原忠平に仕えたが、希望が叶えられず関東に戻った。同族内の領地争いから伯父の国香を殺し、武蔵国や常陸国の紛争に介入するなど関東に勢力を拡げた。自ら新皇と称し関東独立を図ったが朝廷の追討軍との争いに破れた。京都で処刑され首が飛び帰って葬られたのが大手町将門首塚とされる。

 

 藤原秀郷(ふじわらひでさと)

平安中期の武将。俵藤太(たわらとうた)と呼ばれる。平将門の乱を平貞盛とともに平定し、下野守・武蔵守となる。小山・結城氏などはその子孫。百足退治の伝説でも知られる。

 

 源義朝(みなもとよしとも)

1123〜1160年、平安末期の武将。源為義の長男。保元の乱後白河天皇方に加わり功によって左馬頭となった。のち平清盛と対立、平治の乱を起こして敗死した。

 

 平清盛(たいたのきよもり)

1118〜1181年、平安末期の武将。平忠盛の長男。白河法皇の落胤とも伝えられる。父の地位と遺産を受け継いで政界に進出。保元の乱平治の乱により対立勢力を一掃、従一位太政大臣となる。娘徳子を高倉天皇に入内させ官職を一門で独占、知行三十余国に及ぶ平氏政権を樹立した。

 

 藤原秀衡(ふじわらひでひら)

?〜1187年、平安後期の陸奥の豪族。藤原基衡の子。鎮守府将軍。平家滅亡後は源義経をかくまって源頼朝に対抗。奥州藤原氏3代の栄華の頂点をつくった。

 

 藤原基衡(ふじわらもとひら)

平安末期の陸奥豪族。藤原清衡の子。陸奥・出羽押領使。平泉を本拠地として陸奥六郡を支配。毛越寺を建立した。

 

 藤原清衡(ふじわらきよひら)清原清衡(きよはらきよひら)

1056〜1128年、平安末期の陸奥の豪族。後三年の役源義家に味方して異父弟清原家衡らを討ち陸奥六郡と出羽の管領権を握り、奥州藤原氏の基を築いた。平泉に中尊寺を建立した。

 

 平忠盛(たいたのただもり)

1096〜1153年、平安時代後期の武将。平正盛の子。白河上皇鳥羽上皇に仕える。長承元年得長寿院をつくった功により内昇殿をゆるされた。また山陽・南海両道の海賊を鎮圧、日宋貿易にも関係して平家繁栄の基礎を築いた。

 

 紀貫之(きのつらゆき)

866?〜945?年、平安前期の歌人・歌学者。三十六歌仙の一人。官位・官職に関しては不遇であったが歌は当代の第一人者で古今和歌集の撰者の一人。

 

 和気清麻呂(わけきよまろ)

733〜799年、奈良末・平安初期の廷臣。藤原仲麻呂の乱に功を立て輔治能真人(ふじののまひと)の姓を受けた。道鏡が皇位簒奪さんだつを企てると、宇佐八幡宮に使して神託を得これを妨げた。平安遷都を建議。

 

 道鏡(どうきょう)

?〜772年、奈良時代の僧。称徳天皇の寵を受け太政大臣禅師に、次いで法王位に昇り政界に権勢をふるった。のち皇位に就こうとしたが和気清麻呂らの妨害にあい失敗。称徳天皇の死後失脚し、造下野国薬師寺別当に左遷されその地で没した。

 

 坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)

758〜811年、平安初期の武将。延暦13年(794年)蝦夷を征討し征夷大将軍となった。その後、胆沢城(いさわじょう)を造営し蝦夷地平定に功を残した。京都の清水寺の創建者と伝えられる。

 

 屋島の戦い(やしまのたたかい)

1185年2月、一ノ谷の戦いに敗れて屋島に拠っていた平氏を、源義経の軍勢が急襲し海上に追い落とした合戦。義経の弓流し平景清の錏しころ引き、那須与一の扇の的などの逸話で名高い。

 

 一ノ谷の戦い(いちのたにのたたかい)

1184年2月、源義経・範頼が再挙を計った平氏を一ノ谷に襲い海上に敗走させた戦い。義経の鵯越(ひよどりごえ)の奇襲戦法が有名。

 

 壇ノ浦の戦い(だんのうらのたたかい)

寿永4年(1185年)壇ノ浦で行われた源平最後の合戦。平氏は源義経を総大将とする源氏の軍に敗れ、安徳天皇は二位尼(平時子)とともに入水、大将平宗盛も捕らえられ平氏は滅亡した。